白洲正子(1910-1998)は、白洲次郎の妻であり、小林秀雄、青山二郎と並んで、3人の美学者、僕の感想ではスノビッシュな(SNOBBISH)人物と思っていた。どうも、日本語で適切な訳が思い浮かばないのだけれど、紳士気取りの、貴族趣味的ということかな、。
ところが、昨年9月以降、高等遊民化せんとして、その頃びびっときていた能楽のことを調べようと、図書館を探していたところ、まず、『お能の見方』という本に出くわした。白洲正子と吉越立雄の共著。文章は白洲正子。写真が吉越正男。この本にいたく感動して、その頃はとにかく書籍を増やしたくなかったから、買うことなく、同書籍中の、『お能の見方』と言う章を全部コピーしてしまった。このことは、前にもこのブログに書いたか。
まあ、いわば能鑑賞の基本書になったわけ。
その頃から、白洲正子の初期のエッセーである『お能』を読みたいと思っていた。開架を探しても見つからない。でも、やっと白洲正子全集の第1巻に掲載されていることがわかり、借りてきた。1943年著。33歳だぜ。
その内容は、ビンビンと響く。「タダ見ろ」とか「型だ」とか、「芸術ではない見物だ」、「お茶道具と同じ」、とか。世阿弥の話、明治維新後の梅若實の話とか、豊富な知識と経験に裏打ちされて、きれいな日本語で、(僕には)極めて説得的に、というか僕が感じていたことと同じに、僕には書けない表現力で、書かれている。
能鑑賞の基本書第2号。
それだけではなくて、謡や舞を習いたくなる。もっと新しい地平が見えてくるだろう。
能を鑑賞しだしてから、能の原作的なものは平家物語だと気づいて、吉川英治の新平家物語を読み直したり(25年くらい前に読んだ記録があるが、まった記憶にない。)、平家物語絵巻を読んだりしたが、途中になっている。新平家物語はまだ5巻、絵巻は4巻。飽きたのではなくて、読めば夢中になるのだが、次々と別の気になる本が現れて、移り気、浮気状態。伊勢物語、やはり源氏物語も、と。
そこに、白洲正子だ。どうする、どうする。
高等遊民は忙しいのだ。やりたいことが山積し、次々と現出する。
実は、まもなく椎名誠の講演会兼サイン会に行く。椎名誠は、ずっとファンで、但し飛ばし読みでも意味が解る文章だから、絶対にハードカバーは買わずにいた。それと比較するのもなんだけど、白洲正子の文章は、緊張の連続。能も緊張の連続。今は、この緊張感が心に突き刺さる。心地よい。