自死遺族が始まった日のことを振り返り

学んだことも含めてアウトプットしている

 

 

「自死遺族が始まった」シリーズです。

 

 

 

 

さっき書きましたが↓

やっぱり未消化というか

閃いたものがあったので、

 

もうちょっと書かせてくださいね。

 

 

 

 

 

 

 

死というのは

 

一人として同じではないですから

 

 

 

あくまでこれは

 

自分が生きてきた中で

見聞きしてきたことも含めて

 

 

思った話として聞いてもらえたら嬉しいです😊

 

 

 

 

 

 

 

 

自死に関して

 

今までになく

人生で一番よく向き合う機会をもらっている

 

今ですが、

 

 

 

 

前回のを書きながらふと思ったんです。

 

 

 

 

 

あくまで主観ですけれども

 

 

 

 

 

自死という形で死に至るには

 

悲しいかな

 

 

その気持ちを持っていた

持ち続けていたという気はしています。

 

 

 

 

それを人に言うか言わないかは別として。

 

 

 

 

 

 

 

だからこそ、

 

そのどこかで気づけなかったのか

方向を変えれなかったのか

もっと一緒に生きられたのではないか

 

 

 

 

と、遺族やその人と親しかった人は

 

何が出来ることがあったのに

やれなかったのではないか

 

 

自分を責めてしまうことがあります。

 

 

 

突然の度合いが高ければ高いほど

その気持ちも強くなっていく気がします。

 

 

 

 

 

で、

 

ここで

真逆の発想なのですが、

 

 

 

 

もし。。。

 

 

 

 

 

予測できないうえに

発作が起きると

すぐに対応したとしても

 

悲しいことに亡くなる確率も高い

 

 

 

 

大動脈解離や脳卒中

心臓発作のように

 

 

 

 

心の中で

急にソレが

(自殺衝動のこと)

 

発作のように

瞬間的に起きてしまったものだったとしたら

 

 

 

 

その場じゃないと

対処できないと思うんです。

 

 

 

 

 いいえ、

その場で対応していても

 

亡くなる可能性がある病気です。

 

 

 

 

 

 

それと同じように思うと

 

 

 

 

もし、仮に

 

それが何回も

突発的に起きていたのだとしても

 

 

 

 

もしかしたら

誰かと話をすることで

 

 

 

気がまぎれてたり、気が晴れていたりして

 

パンパンに膨らんだ心に

風穴があいて

 

 

少しガス抜きになったり

 

少し楽になることで

 

 

 

 

もうちょっと生きてみようって

頑張ってみようって

 

 

思ったり

 

 

 

 

 

大切な誰かや

 

過去の大切な思い出を思い出して

気持ちが切り替えられていたことも

 

 

いっぱいあったと思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

普段の何気ない会話の中で。


 

 

 

 

 

そう思うと

 

何も出来なかった

ってことはなくて

 

 

 

 

 

あなたという存在があって

 

 

悲しい結果に

終わってはしまったけれども

 

 

 

むしろ

本人が思っていたよりも長く

 

その人がこの日まで生きられた

 

 

 

 

力や支えになってたのかもしれません。

 

 

 

 

あなたという存在があったからこそ

人生に彩りが増えたのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

もちろん

そこと違うところで

 

何か引き金になるようなことが

起きてしまった可能性が

 

十二分にありますけれどもね。

 

 

 

 

 

 

 

勢いあまって次も書いちゃったので

朝投稿予約しておきますので

 

良かったら覗きに来てくださいね。

 

 

 

おやすみなさい☆

 

続きます↓