「葬るに分を越ゆるなかれ」    
                   農政家 二宮尊徳(1787~1856)

埋葬するにあたり、分不相応なことをしてはならない。

二宮尊徳



その生きざま…
二宮尊徳は相模国足柄上郡の貧農の家に生まれ、十代で父母を失った。
体格に恵まれ、少年時代から昼は労働、夜は勉学に励んだ。
荒れ地を開拓し、一家の再興どころか、足柄上郡きっての大地主となる。
尊徳が農政家として活躍を始めるのは、三十六歳の時で、
下野国桜三カ村の復興事業を命じられ、同地に移り住み八年後、
事業は達成される。
その後、名声を上げた尊徳は、関東各地の幕府の天領の事業を任される。
単なる技術者にとどまらず、その活動には
天地の恵みに感謝する報徳思想が貫かれていた。


その死にざま…
頑強そのものであった身体も六十を過ぎたあたりから病気がちとなる。
日光神領の荒れ地開拓を進めていた彼は、杖にすがりつつ働いたという。
安政三年十月二十日、多くの崇拝者に囲まれて没する。
その時遺言し、上の言葉に続き「墓や碑を建てるなかれ。
ただ土を盛り、そのわきに松か杉を一本植えれば足りる」とつづけた。
質素倹約、勤勉を生涯重んじ、自然の恵みを知る、当時としては出色の
合理主義者らしい最後の言葉。