「常に兵法の道をはなれず」
剣術家 宮本武蔵(1867~1955)
剣術家 宮本武蔵(1867~1955)
私の一生は、常に兵法とともにあった。
二刀流で名高い剣豪宮本武蔵は十三歳で初めて新当流の
有馬喜兵衛と決闘し勝利、十六歳で但馬国の秋山という強力の兵法者に勝利、
有馬喜兵衛と決闘し勝利、十六歳で但馬国の秋山という強力の兵法者に勝利、
以来二十九歳までに六十余回の勝負を行い、すべてに勝利したとされる。
五十七歳の時、肥後藩主細川忠利の招きに応じ、熊本に下り、
細川家の客分となる。
その後、病気がちとなり、衰えを知った武蔵は、霊厳洞(れいげんどう)という
洞窟にこもり、禅の修行に打ち込むとともに、兵法書「五輪書」を書き上げる。
五十七歳の時、肥後藩主細川忠利の招きに応じ、熊本に下り、
細川家の客分となる。
その後、病気がちとなり、衰えを知った武蔵は、霊厳洞(れいげんどう)という
洞窟にこもり、禅の修行に打ち込むとともに、兵法書「五輪書」を書き上げる。
その死にざま…
冬の洞窟暮らしは病状を確実に悪化させた。五輪書を書き上げたあと、
手足の自由がきかない状態となっていく。
手足の自由がきかない状態となっていく。
いよいよ死期が近いことを悟り、遺書とも言うべき「独行道(どつこうどう)」を書く。
これは十九条から成り、自分の生き方を再確認して自ら戒め
、誇りを持って死んでいくための書である。
上の言葉は最後の一条となっている。
、誇りを持って死んでいくための書である。
上の言葉は最後の一条となっている。
そして六十二歳で息をひきとる。そのとき武蔵は
「帯を締め、脇差しを帯し、片膝を立て、刀を左に杖に突いて、絶命した」という。
「帯を締め、脇差しを帯し、片膝を立て、刀を左に杖に突いて、絶命した」という。
いかにも武蔵らしい死にざまであった。
遺言で「我が亡骸に甲冑を着せて棺に入れ、街道の傍らに埋めよ。
殿の参勤の盛儀を拝し、守護せんがためなり」とし
三日後、遺言に従い、甲冑を着せて納棺され、葬られたという。
遺言で「我が亡骸に甲冑を着せて棺に入れ、街道の傍らに埋めよ。
殿の参勤の盛儀を拝し、守護せんがためなり」とし
三日後、遺言に従い、甲冑を着せて納棺され、葬られたという。
宮本武蔵(一) (吉川英治歴史時代文庫)