「これは、決して自分一身の事柄ではないのだ」
               公卿・政治家 岩倉具視(1825~1883) 


岩倉具視



その生きざま…
「王政復古の元勲(げんくん)」といわれる岩倉具視は一方で「策士」と
呼ばれた。京都の公家堀河家に生まれ、のち岩倉家の養子となる。
三十歳で孝明天皇の侍従となった。はじめは強硬な尊王攘夷派だったが、
皇女和宮の降嫁問題が起こると態度を一変、
公武合体はとなる。尊王攘夷派の弾劾を受けて蟄居することになるが、
この間、公武合体から倒幕による王政復古を画策。
大久保利通らと通じ王政復古の指導的立場を果たす。
維新後は、右大臣、米・欧施設の特命大使として
新政府の推進役となる。


その死にざま…
体調を崩し、ドイツ人医師のベルツの診断を受けるも、すでに衰弱が
ひどかった。 岩倉具視に正直に話して欲しいと求められたベルツは、
様態は絶望的だと答えたという。その時、憲法調査のため
ヨーロッパに滞在中だった伊藤博文が帰国するまで
命を持たせてくれと懇願し、この言葉を残す。
伊藤博文に何としても言い残しておきたいことがあったのだ。
ところが岩倉は、伊藤が帰国するのを待たずして絶命。五十九歳だった。
その六年後、欽定憲法が実現する。
そこには、天皇制の権力の強大化を図ろうとした岩倉具視の策が、
そのまま繁栄されていた。
維新―岩倉具視外伝