「戦場に屍(しかばね)を晒(さら)さんと思いしに、
其の期来たらねば、今まで生き延びぬ。
いたづらに月日を送り、病にをかされ、
床の上にて死なん命の口惜しや」 
大名 伊達政宗(1567~1636)

かねてから戦場で戦って死のうと願っていたのに、その機会がない
ままに生き延びてしまった。
ただ無駄に過ごし、病気にかかってしまい、このように何も
できずに床の上で死んでしまうとは、武士として実に無念なことだ。

伊達正宗


その生きざま…
正宗は疱瘡のために片目の醜い容貌となったため、母に疎まれ、
その母は利発で美しい弟小次郎を愛した。ついには、正宗を毒殺
しようとし、正宗は伊達家の分裂を避けるため、泣く泣く弟の
小次郎を斬殺、母を追放する。
伊達家存続のため、父、輝宗を見殺しにし、近隣諸国と争い、
小田原出兵では、秀吉に屈服し、朝鮮の役、関ヶ原の戦い、
大坂の陣とそのほとんどを戦いに明け暮れた。
仙台六十二万石の大名として定着するが、天下取りの夢は
胸中を去らず、あと十年早く生まれてきたらという悔しさに
満たされていた。江戸に行く途中で病気となり、
江戸の仙台藩屋敷で病床についた。
そして、七十年の波乱の生涯を閉じた。
独眼竜と恐れられた正宗は天下人への野望を抱いていた
と言われるが天下人の座は、徳川家盤石の頃、徳川家康が
死んで二十年が経っており、すでに戦国の時代は終わっていた。


その死にざま…
寛永十三年(1636)四月、病を発症、五月一日、一旦登場したものの
床に伏せる。
それでも気丈な正宗は、二十三日には病室を掃除させ、
身体を洗い清め床に入る。
翌二十四日、正宗は髪を整え、身を清めた後、西方に向かい
合掌礼拝し
「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照らしてぞゆく」
と詠み、自分の心には一片の曇りもない。
その澄んだ心の光でこの世を照らしながら死んでいく。
と末期の覚悟を伝えている。
「死に顔をみだりに人に見せてはならぬ」と言い残して
息をひきとった。享年七十歳。
戦国武将としての野望と最後を果たせなかった無念さが
にじみ出た言葉だろう。

戦国BASARA3 伊達政宗の章 (講談社BOX)