前回、岩見沢に行った時、志文の街を訪ねた

 

廃線跡好きとしては、万字線の分岐駅だった志文駅も有ったり過去に何度か訪れた地域だ

 

志文本町は室蘭本線と幌向川に挟まれたこじんまりとした街で

 

新興住宅地が国道234方面、東北側に延びて行った感じだ

 

本町は、古い木造建築が残っていたり、駅付近には今は別の用途に使われている旧農業用倉庫が有ったり

 

何か歴史の深さを感じる街だ

 

明治43年の地図

 

夕張道路(現:国道234)から分岐し志文駅前に通じる道が開通している

 

大正5年測量、昭和10年修正の地図でも、市街地は駅付近の狭いエリアだ

 

志文をネットで検索してみたり、図書館に行って歴史を調べてみた

 

道立図書館で「志文本町史」を借りた

 

あの小さなエリアの街でも、立派な町史の本を作る所なんか、やっぱり歴史の深い街なんだなと感じた

 

ざっくり年表

1889年(M22)岩見沢から夕張炭山に至る夕張道路が開通(夕張道路(囚人道路) → 大正国道二十八号 → 国道234号)

1889年(M22)10月 同上の夕張道路から志文幌向川に至る道路が開通 3人の先駆者が開拓に入る

1892年(M25)辻村直四郎 志文へ農場開設

1892年(M25)8月 北海道炭礦鉄道により 岩見沢-輪西間 開通(志文には駅は無く通過)(現:室蘭本線)

1894年(M27)志文に寺子屋教育始まる 南9線東17(辻村直四郎は現在の岩見沢市立志文小学校の原型を作る)

1899年(M32)志文市街から万字に至る道路が開通(奥地と交流が盛んになる)

1902年(M35)志文駅 開業

1907年(M40)志文市街-栗沢滝の上間 軽便馬車軌道 敷設(美流渡地区の森林資源開発)

1914年(T03)11月 志文-万字炭山間 万字軽便鉄道 開業(万字炭鉱からの石炭輸送、後の万字線)

1915年(T05)万字線の開業により使命を終えた、志文市街-栗沢滝の上 間の軽便馬車軌道の撤去

1915年(T05)軽便馬車軌道の廃止の関係で?志文駅が北に250m程移動(現:志文駅の位置)

1961年(S36)岩見沢-志文間線路容量不足解消のため、別線を増設、使用開始。(現:室蘭本線の岩見沢-志文間)

1985年(S60)万字線全線が廃止

 

志文史の挿絵に軟石を使った倉庫の絵が有った、現地に行った時に探してみよう

 

大正・昭和期の志文市街地図

 

志文神社の裏を走る軽便馬車軌道の位置は、地図等の資料も無くハッキリした路線跡が分からないそうだ

大方道路に並行して走っていたらしい

 

当時の志文市街は、美流渡から搬出する木材の造材や、馬車軌道で働く人で賑わい

 

十数戸の街であったが旅籠(旅館)も建ち、料亭(居酒屋)が7~8軒建ち昼間から三味線の音が聞こえる程活気が有ったそうだ

 

この頃の志文の街は小さいながらも、一番華やかな時代だったらしい

 

昭和20年代の志文市街地図

 

平成5年の志文市街地図

 

見比べて見ると大正期から営業を継続している商店や、古くからの建物も残っていそうだ

 

志文の開拓者の一人、辻村直四郎の子孫の方がお住まいで、1914年(T03)に建築された当時の家も残っているとの事だ

 

(岩見沢市議会議員さんのブログ)

 

辻村直四郎の孫の嫁さんが営む、グランマ・ヨシエ 菓子店も有り

 

万字炭山を買って、あわよくば許可を頂き辻村直四郎の自宅だった建物も見学したい

 

もう一つ発見した事が、辻村直四郎の子供が、馬追原野を書いた、辻村もと子でる事を知った

 

以前、マオイ文学台に行った時、そこから見える景色に魅了され

 

馬追原野という作品に興味を持ち一度読んでみたいと思っていた

 

父親の辻村直四郎が小説のモデルで

 

1891年(M24)北海道で大農場経営を夢見て、神奈川から北海道に移住

 

直四郎より先に馬追原野(長沼)の貸下げを受けた

 

関谷卯之助の土地の開墾に従事するとことから小説が始まる

 

初版本は、定価弐円

 

太平洋戦争2年目の1942年(S17)に発行

 

この小説本が出るくらいなので、まだ戦果も良かった時代なんだろう?

 

小説の舞台となる馬追原野は今の北長沼あたりで

 

当時まだ今の室蘭本線は開通前の工事中

 

札幌から岩見沢まで汽車で行き、岩見沢から夕張道路を四里(16㎞)ほど歩いて南下

 

久樽(くったり・今の栗丘)から、夕張川をアイヌの丸太船で渡り馬追原野の開墾地まで行ったそうだ

 

馬追原野の巨木が立ち並ぶ原生林、笹薮茂る台地は、北海道庁に寄り区割りされ

 

開墾を望む者に貸下げされ、期間中にその土地を開墾出来た者はその土地を自分の物に出来たそうだ

 

辻村直四郎の様な一般個人に渡る事は難しく

 

政治家、大企業、華族などに優先的に渡された様だ

 

 

 

久樽(くったり・今の栗丘)は、北海道炭礦汽船の鉄道工事中(今の室蘭本線)で

 

久樽の当時の様子を書いた一部を紹介します

 

「20~30戸の市街地には…板囲いの家が立ち並び、荒れた肌に白粉をぬった女たちが客を待っている姿も見受けられた。

 

土地が開けて、人が住み始めると、第一に入り込んでくるのは、鳥と白首(ごけ・淫売婦)だと言われていたが

 

夕暮時の白ちゃけた新開地にたたずむ女たちの姿はわびしくもすさまじいものであった。」

 

(馬追原野はネットで公開されていて読む事が出来ます)

 

さて、志文の下調べもある程度済ませたので、次は現地に行ってみましょう!