によれば 元康(家康)17才のとき 今川義元の人質として駿河にいた元康が義元の命により総大将として 織田側についた 加茂郡寺部城の鈴木重辰を打つため 十年余年ぶりに
この三河に主君として帰って来ました、当然 元康は初陣で三河武士は俄然 やる気になっていました。寺部城を落とすには数ヶ月掛かりましたが、その時の史実として 三河の家臣団と大樹寺の僧侶 住職達の戦いぶりが記載されています。

この浮世絵武者絵は形原松平4代の家広が織田方の寺部城攻略の帰り 矢作川河畔で戦闘の際 何とか大樹寺に逃げ込み 住職の登誉僧侶の加勢で何とか撃退した時 大樹寺の施書にあった「利剱即是 阿弥陀名号」を竹竿につけ 戦って 余りにも激しい戦いのため
その旗印の先端部の「利」が残った。それ以後元康(家康)から馬印を「利」とせよと認められた。

形原松平の馬印には「利即是」の馬印がある
利剱即是 阿弥陀名号は登誉上人が三河武士の常々の戒めを教えたのかも

形原記では大樹寺の合戦のとき元康が掲げた
旗印が「えんりえどごんぐじょうど」である。
