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郷土史のブログです、

形原記(松平敏著)によれば
永禄元年(1588年)元康(家康)17才のとき
三河は織田方の勢力が強まり、額田の鈴木重辰 寺部城 が織田方に寝返り (現在の豊田市)岡崎が危うくなっていた。このときすでに三河の主君広忠は殺されていた。今川義元の家臣が岡崎の城代、各要所を守っていたが、義元は駿河に10年以上人質としていた 広忠の嫡男 元康を三河に帰し 織田方の先鋒としてた。三河の家臣団は喜び、早速 寺部城攻略にかかった。このときが元康の初陣であった。

このとき寺部城の戦いで帰途の途中 織田方の待ち伏せにあい なんとか大樹寺に逃げ込み体勢立て直した。大樹寺の僧侶、住職の登誉上人も加勢して 敵を撃退させた。このとき形原の家広は寺にあった施書の「利剱即是 阿弥陀名号」を竹竿につけて必至に主君を守った。家広は激しい戦いのあと この施書の「利」の字のみが残った。主君元康は叔父の戦いぶりに感激しこれを形原松平の馬印にせよと 言われた。「利即是」と「丸利」が形原松平の馬印になりました。


形原で生まれた 家広は地領750貫(約1500石)の小さな国衆(土豪)で正室は元康(家康)の母 於大の方の姉の於丈の方で刈谷の水野忠邦の娘達でありましたが、水野が織田方に寝返ったため離縁しました。元康の父 広忠も家広も経済的にも立場的にも苦しい三河武士でした。家広の馬回りは十数人で
息子の家忠、叔父 形原の名士と数人でした。しかし元康(家康)の家広にたいする信頼は絶対的なものでした。