【式微(しきび 非常に衰えること)の時代の仁君の事績】

時は室町時代、応仁の大乱を契機に戦国時代に突入しました。この時代に皇位にあらせられた後土御門・後柏原・後奈良三天皇は、みな人民の困苦に心を痛めた仁君として名を青史にとどめられています。なかでも後奈良天皇の般若心経 親写の事蹟は有名です。

後奈良天皇は践祚後、即位の大礼は容易に挙行できず、十年後の天文五年(1536年)二月に至って周防の大内義隆の費用献上により漸く式を挙げられましたが、大嘗会は、父帝の場合と同じく、ついに挙行を断念せざるを得なかったので、天文十四年八月伊勢神宮に宸筆の告文を献じ、大祀を挙行できない事情を述べて神様に陳謝されたのです。その大意は、
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大嘗の祭事を果し得ないのは、怠慢のためではなく、国力の衰徴を懸念するからです。在位すでに二十年、公道行われず、賢聖有徳の人なく、下刺上の心が盛んで暴悪の凶族が横行しています。古昔の諸国の調物はもちろん、近例として諸国に割りあてた料物は武士に押領され、諸社の神事も退転し、諸王諸臣も窮乏して、朝廷の費途も杜絶せんばかりです。神明の加護がなければ、聖運の延長をたのみたいのです。急に神威を加えて、上下和睦し、民戸豊鏡、宝酢長久の所願の速かに成就することを伏して祈願申し上げます。
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という内容です。これには天皇の乱世に対する所感と心構えがよく現われています。天皇がしばしば官位の濫授を抑制したのも、下刺上の風潮をおさえ、社会秩序の安定を願ったためであり、民戸の豊鏡と秩序の回復こそ、国力の衰微を防ぐ要道であるとするお考えがここに読みとれます。

そしてさらに民生の安定を祈念する心情を端的に物語るのが、天文三年 (1534)と天文九年に親写した宸筆 般若心経の奥書です。
弘仁九年(818) 疫病が大流行したとき、嵯
峨天皇は親しく宸筆を染めて心経を書写し、空海に命じてこれを供養させ、疫病を祈穣したと伝えられています。
後奈良天皇も、天文三年の疫病流行に当り、これらの例に倣って心経を親しく書写されし大覚寺に納めました。この紺紙金泥の宸筆心経は、いまも同寺に尊蔵されていますが、その奥書には、

疾疫の流行、民庶の憂患は天子の不徳のいたすところとして、目が覚めいる時や寝ている時も安心できないと心情を吐露しておられます。

○まとめ
天皇陛下は戦乱の世でも常に国民の安寧を祈ってくださるご存在です。その大御心は今上陛下も同じです。
皇室バッシング禍の現代も戦乱の世、有事と言えると思います。
今に生きる僕は、常に被災地に寄り添われる、弱者に寄り添われる今上陛下を大切にしていきたいと思います。