【古事記を読む時の僕の心構え】
〜古事記に親しみましょう〜

まず、古事記編纂の動機と目的は、太安萬侶の序文にある天武天皇の勅語によって明らかにされています。
「朕聞く、諸家が伝え持っている帝紀と本辞は、すでに正実に違い、多くの虚偽を加えていると。今の時にあたって、そのあやまりを改めなければ、幾年もたちぬうちに、正伝の本旨は滅ぶであろう。正実の帝紀と本辞は邦家の経緯(国家の規準)であり、王化の鴻基(天皇徳化の根本)である。故に帝紀を選録し、旧辞を深く考究して、偽を削り、実を定めて、後世に伝えようと思う」
この序文に何も隠すことなく明白な政治的目的が公開されています。

しかし、「偽を削り、実を定める」作業の中に支配階級の政治的悪意のみを見るのは、歴史と政治の本質を知らない僻見であり、悪意ある俗説にすぎません。また、これを原始の迷信の書、または政治的悪意と作為による虚偽の書と見るのは、古代史書の扱い方を知らない俗学の徒の浅見にすぎません。

神話はさまざまな道に機能します。儀礼的に機能することもあれば、歴史的に機能することもあり、更にまた政治的に機能することもありますが、しかし、政治的に機能するというのは、必ずしも神話が政治的支配のみを目的として作り上げられたことを意味しません。特に神々の物語を読む時には、国への愛と神々への畏敬を欠いては、稔りのない寂寞荒涼の結果に終ってしまうと思います。
確かに古事記には網羅されていない伝承はあります。一部の人たちは古事記の大綱をなす物語は、天皇一族と少数の取り巻きが、皇室の神性的出自とその統治権の神授性と尊厳性を民衆に示す意図と目的をもって、想案したもであると説きますが、でもこれは学問的に妥当な説とは言えません。

古事記ほど隠すところなく開けっぴろげな歴史・神話は珍しいです。神々と天皇の行状、皇子たちの皇位争い、度重なる豪族の反乱の激しさ、古代的で肉感的な恋愛と性関係もまた不遠慮にあからさまに描かれています。正直であり、素朴であり、陰謀や殺し合いの叙述にも陰湿さはありません。 

民族の自信と誇り、豊かで大らかな心の回復は、まず、日本の成り立ちの物語や自分自身の原点を見定めることであるとすれば、古事記の心読は、とても大切なこととだと思います。