【玉串奉奠】〜拝と奉仕〜

神様を樹に例えるならば、人間は一本の枝であり葉っぱですね。玉串であらわしている『自分自身』の枝を、神の幹にささげ、一体につながった後に、両手を合せて柏手を打つ。これが玉串奉奠で、この拍手は献身の誓いの意味があると思います。
キリスト教的に言うと「われは葡萄の樹、なんじらはその枝なり』との(ヨハネ伝十五章五節)ということになるのかもしれません。

日本の三千年の歴史を樹に例えるならば、天皇はその幹であり、その枝には日本文化という枝が伸びてそこに美しい花が咲き、生き生きとした葉が茂っています。

日本の歴史を振り返ると、外国から仏教が輸入された仏教全盛の奈良文化のあとをうけて、日本独自の文化樹立を志して生まれたものが、平安朝の健児団運動です。何が日本の素晴らしい文化であろうかと考察すると『拝』と『奉仕』の二つのではないでしょうか?

①神を拝すること。
②奉仕し合うこと。

この二つのことを実践すると、互いに相手を尊重し、いたわり合い、おろがみ合った生活が実践されて300年以上にわたる平安の時代が訪れたのです。

どんな文化圏であっても、太陽は一つです。神道で言えば、太陽は天照大神、仏教で言えば、太陽は大日如来です。地球上のどこに住んでいる人も、どんな宗教の人もお日様に手を合わせて感謝する、人のために役に立つようなことを行う、この二つをみんなが行えば世界は良くなっていくと思います。
玉串奉奠とは、そんな自分自身への誓いなのかもしれません。

○まとめ
民主主義は、ややもすると愚民多数決になる危険性があります。多数が大衆心理に引っ張られて道を間違えることがあるからです。想念は目に見えないものですが、想念には力があります。大衆の大きな想念が間違った方法や、ネガティブな方向へ進むと、それはマイナスとして現実世界に具現化されてしまいます。

それと逆にポジティブな想念が大衆心理や大衆想念となれば、それはプラスとして現実社会に具現化されると思います。

日本国民は神様に通じる天皇陛下のなさりようや大御心ををよく知り、そこから何をすべきかを学び、日本をポジティブにしていくために、何を精神的な基盤にするのが良いかを考えると、『拝と奉仕』ということになるのではないでょうか?

玉串奉奠は、神様の大きな幹に、自分という小枝や葉っぱをリンクさせるということだと思います。それを実践的な社会生活に現すと、『拝と奉仕』になるのかなと思います。