【[旗日のお知らせ]10月10日は「スポーツの日(体育の日)」です】
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10月10日は昭和39(1964)年10日10日に夏季オリンピック東京大会の開会式が挙行されたことから昭和41(1966)年、国民の祝日に「体育の日」が加えられました。今年から「体育の日」がなぜか「スポーツの日」になりましたが、体育とスポーツはまったく別の概念です。1964年の日本は大東亜戦争の終戦から辛く長い占領期を経て、国際社会に復帰してまだ20年しか経っていませんでした。空襲や原爆で国土が焦土となってから、たった20年で夏季オリンピックが開催できるまでに復興したのです。アジアで日本に次いでオリンピックを開催したのは韓国ですが、ソウルオリンピックは昭和63(1988)年、北京オリンピックは平成20(2008)年です。それを考えると、東京オリンピックの開催がいかに快挙であったかが分かります。
前日は台風が接近していて天気が心配されましたが、開会式当日は秋晴れになりました。池田首相も開会式に参列していましたが、開会宣言をされたのは昭和天皇でした。天才作曲家といわれた古関裕而が作曲した「オリンピック・マーチ」に乗って入場行進が行われると、観衆の興奮は最高潮に達しました。
開会式に続く競技でも日本選手の活躍ぶりは戦争のブランクを感じさせないものでした。女子バレーボールで日本がソ連を破って優勝した決勝戦の視聴率は66.8%で、スポーツ中継としては歴代最高でした。東京オリンピックは敗戦の痛手から国民が立ち直り、自信を取り戻すきっかけになった、まさに民族の祭典でした。
しかし平成13(2001)年の「改正祝日法」(通称「ハッピーマンデー制度」)によって「体育の日」は10月の第2月曜日になり、10月10日という日付が消えることで東京オリンピックの感動を知らない若い世代がこれから増えてゆくでしょう。運動会や体育祭が多い時期ですが家庭で「体育の日」の由来を子供たちに伝え、廃墟の中から立ち上がった先人のご苦労を伝えたいものです。
○昭和15年昭和天皇が家族でご覧になった、オリンピック・ニュース
戦前の昭和15年の東京オリンピック開催が決定したのは、昭和11年8月1日から始まったベルリンオリンピックの直前に開かれたIOC総会でした。開会式を明日に控えた7月31日、次のオリンピック開催地について各国から集ったIOC委員による投票が行われました。その結果、東京36票、フィンランドのヘルシンキ27票で、東京が勝利したのです。
ちなみにその後の8月10日の「昭和天皇実録」には、こんな内容が記載されています。
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十日 皇后・成子内親王・和子内親王と御夕餐を御会食になる。御食後、御一緒に活動写真を御覧になる。漫画、日食映画、朝日ニュース、パラマウント・ニュース、オリンピック・ニュース等を午後九時十五分まで御覧になり、侍従長以下の側近者・供奉高等官に陪覧を仰せ付けられる。
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詳細は定かでないものの、オリンピック・ニュースをご覧になっていたということは、おおいにオリンピックに関して興味を覚えていらっしゃったことの証左でもあります。そして注目なのは、「侍従長以下の側近者・供奉高等官に陪覧を仰せ付けられる」という部分です。つまり一緒に映画を鑑賞しても良いと、昭和天皇が仰せになったということ。これがベルリンオリンピックのニュースであるならば、東京オリンピック開催決定の喜びを、側に仕える人々とともに分かち合いたいと、映画鑑賞にお誘いになったのではないでしょうか。
○日本からオリンピック開催を返上
しかし、この大会が辞退の憂き目にあいます。その原因となったのは、昭和12年盧溝橋事件に端を発した日中戦争の勃発でした。国際社会との軋轢が激化し、また国内でも戦費の増大と兵士の確保という軍部の意見が強くなり、昭和13年7月15日の閣議でオリンピック返上を正式に決定となりました。
ではその時、昭和天皇はどのような思いを抱いていらっしゃったのか、再び「昭和天皇実録」を紐解いてみると、緊迫した雰囲気が伝わってきます。そのことが如実に感じられるのは、閣議の3日前の記録です。
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十二日 午後四時三十五分より一時間余りにわたり、内閣総理大臣近衛文麿に謁を賜い、この日の五相会議において決定の「時局ニ伴フ対支謀略」等につき、奏上を受けられる。(中略)ガソリンを始め種々の節約につき注意を払われ、御自身の御食事についても省略のことに及ばれる。(後略)
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いよいよ戦争が重大な局面に差し掛かり、資源の無駄遣いをせず質素倹約しようと、天皇陛下自ら率先して努めていらっしゃる旨が書かれています。
過去の歴史を学び未来に活かすためにも明日はオリンピックの関わりの歴史に思いを馳せて日の丸を高く上げましょう。