【少なすぎる皇位継承資格者を増加させ、一定数の皇位継承資格者を確保する策】


歴史上考えられた策


⦿賜姓降下した後、再び皇籍に復帰: 59 代宇多天皇と第 60 代醍醐天皇の例がある。宇多天皇は、第58 代光孝天皇 の第7皇子。光孝天皇が自らに皇位が回ってくることがないと考え、皇子を臣籍降下させた。宇多天皇も賜姓降下し、 源定省(みなもとのさだみ)と称していたが、父の光孝天皇が危篤となり、皇位継承のために皇籍復帰。立太子の後、 光孝天皇が崩御したので皇位を継承した。醍醐天皇は、臣籍に降下していた源定省の長男・源維城(みなもとのこれざね)として生まれ、父の皇籍復帰とともに自らも皇籍復帰し、後に皇位を継承した。臣籍として生まれた唯一の天皇。 ⦿親王宣下:生まれながらに皇位継承資格者となるのではなく、皇族として皇位継承資格を得るには、天皇によって親王の地位が与えられることが必要であった。

         

 ⦿世襲親王家:親王宣下を受けることを可能とする親王家をあらかじめ定め、その中で世襲を行い、代々を皇位継承資格者とすること。 


世襲親王家としては、鎌倉時代中期から後期に、四辻宮、五辻宮、常磐井宮、木寺宮の名が史書に見えるが、いずれ も室町時代の中期から後期に消滅。次に室町時代に創設されたのが、伏見宮。江戸末期には伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮の世襲親王家(四親王家)があった。桂宮、有栖川宮、閑院宮は明治時代に何れも断絶した。

         

⦿還俗などによる宮家増設

江戸末期から明治初めにかけて、宮門跡の還俗を主軸に多くの宮家が創設。何れも伏見宮家から派生した宮家。