【皇室と会津藩のこと】⭐︎重要なことです⭐︎
〜『銀のボンボニエール』秩父宮妃勢津子殿下のご著書から抜粋〜
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父と母の結婚や新婚生活についてお話をする前に、私と兄が生まれましたことが先になり、お話が前後しましたが、これは父松平恒雄が、逆賊の汚名を受ける羽目になった旧会津藩主松平容保の四男であることから、少し詳しく会津のこと、祖父のことをお話ししたいと思ったからでした。父が生まれるまでの時代背景、周囲の事情をお話ししておきますことは、私を語るためにも必要ではないかと思われるからです。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」といわれるとおり、祖父はゆえなくして朝敵と呼ばれる身となった人なのです。白虎隊の悲劇をはじめ、若松城(一般には鶴ヶ城)の内外で男に劣らず死力を尽くして戦った非戦闘員の娘子軍も交えた会津戦争は、一カ月の攻防戦の後、ついに城内の北追手門に白旗を掲げ、このときから会津藩は苦難と屈辱の日々を送ったのでした。
祖父は幕府の京都守護職に任じられていたとろ、孝明天皇さまから、「万々の精忠深く感悦の至りに候、」に始まり、「その方精忠に候へば、密事たりとも、朕がのぞむ儀、貫徹いたしくれ候わんやと推察し、その上、何分多人を承知せしむる儀、兵権になくてはと、ふかく存じとみ候えば、その方へ依頼候、」との一節もある長文のお手紙を密々にいただいております。機密を守るため、漢文で書かれ、御製を下賜されたように見せかけるため、御製とともに文箱にしっかり納められていて、伝奏衆というお役目の野宮定功という方が、祖父の館まで持参されたとか。
それほど天皇のご信頼厚かった容保にとって、慶応二年、御年三十六才のお若さでの孝明天皇の突然の崩御は、陰謀、策略、暗殺の渦巻く動乱の時世のとととて、悲しみと痛恨の思いを禁じえなかったことでしょう。
祖父、容保の勤王の志を薩長は百も承知していながら、錦の御旗をひるがえすためには、東国各藩のうち、京都守護職時代から目の上のこぶだった憎い会津を敵にすることだったのです。新政府軍は東征大総督でいらした有栖川宮織仁親王に会津征伐大総督も兼ねていただき、攻め寄せてきました。たと先その軍勢が薩摩と長州を中心とするものであっても、会津にとっては、錦の御旗がひるがえる前では、朝敵の汚名から逃れるすべはないのでした。
若松城を明け渡した後、死一等を減じられたものの、永禁鋼の処分を受けた祖父は、東京へ送られて鳥取藩の池田邸にお預けの身となり、いったん領地のすべてを没収されています。けれども政府は、祖父の永禁鋼の処分は一年足らずで解きました。そして、長男の容大を立てて松平家の存立を認めるとともに、陸奥の下北半島の斗南に三万石の領地を与えたのです。二十八万石の大藩から三万石の未開発の地へのお国替え。容大はじめ藩士たちは追われるように、ある者は新潟の海から船便で、またある者は奥州路を北に向かって移住していったということです。
明治八年に会津に帰って生計を立てることを許されるまでの五年間の過酷な生活は、お国替えのための移住というより、流刑同然であったとか。
祖父容保は明治五年に赦免されましたが、再び世に出ることはかたくなに固辞したといいます。明治九年十一月には、明治天皇の特別のおぼしめしをもって、従五位に叙せられ、累進して正三位となりましたが、明治天皇さまに対し奉ってはひたすら恐擢するのみであっても、「勝てば官軍」の立場にある側に対しては無念の思いを心に深く持ちつづけていたことでしょう。
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◯まとめ
色々な歴史的背景から心ならずも朝敵になってしまった会津藩の家の子孫であるお方が、皇族殿下にお輿入れになることにより、色々な諍いが解消されるようにされた皇室の流れをよく知ることが大切ですね。会津藩の子孫であらせられたお方が、秩父宮殿下の妃殿下になられたという事実は忘れてはならないです。
和を大切にすることは現代の日本社会でも見習うべきことですね。