仕事で大阪北区の梅田地下街を歩くと

心斎橋ミツヤ系列「ピッコロカレー」によく立ち寄った。

 

当時ローカル地域のコーヒー一杯の値段は

250円~300円程度で梅地下辺りでは400円以上と

一息つくにもお金が結構かかる。

 

カレーは昼ご飯には早くて手っ取り早く

比較的安価で済ませられるので

恐らくサラリー・OLさん辺りの第一選択的位置づけでした。

心斎橋ミツヤなんてのも食事と飲み物で

合理的なチョイスになっていたと思います。

 

カレーショップの中には一皿1000円を超える

高級志向尚店もあったが、平日の昼間から

訪ねて行くにはちょっと懐にキツイ。

 

で、記憶を絞り出して

当時のピッコロカレー一皿の値段を思い返す。

多分500円あたりで足りたような気がします。

 

私が行きつけた店は、まだ阪急グループに

「ナビオ・阪急」「阪急ファイブ」なんて建物が存在した時代

そのナビオ阪急の地下から通じる梅地下の一角にそれがあった。

 

辛いものはあまり得意ではなくピッコロカレーは

比較的舌に合っていたし値段も安かった。

 

 

 

その頃から30年以上後の現代

外食産業に於いてはあらゆるアイデアで客の食欲を引き付けようと必死

あらゆる演出で○○ステーキとかテレビで紹介されれば

ひと際繁盛し店舗数も激増します。

 

うちの近くにも○○ステーキが開店していますが、

同も稼働はよろしくない様に見えます。

自分の見立てなのですが、最近の家族世帯や

若者層も外食にあまりコストを掛けないのでは?

 

というか、○○ステーキの価格を観ても

どういうコンセプトかよく分からない

値段は輸入牛だが価格はファミレスのステーキの単価と

差ほどさが無く、メニューにバリエーションも無い。

 

私の場合は、輸入牛は食べるけれど家で調理する。

だからコストは断然低い。

"出かけて食べよう"というモチベーションに理由が余り無く

頭の中にいつも過ぎるお店止まりだ。

 

家では出せない味

そんなものが外食になる理由なんだけど

もうなんていうか、そう云う所はコース料理を出せる

洋食店か和食割烹くらいで

大抵のものは自分で作ってしまうもんだから

わざわざ出かけない。

 

そんな中で、シンプルながらもカレーショップは別格で

ラーメン店同様出かけなければ味わえない

独自性が顕著にある。

 

勤め人の所得年収はこの30年でどう変化したか?

 

終身雇用という性質は撤廃され

企業の雇用にかかる人材に対する担保は

低くなる。

実力主義制度と銘打って歩合制度が取り入れられては

製造業などのライン作業などにも導入され

ライン内の手の遅い人材がグループの足を引っ張り

精度の合理性が疑問視される。

 

事務職員に関しては、年間を通して繁忙月はあっても

個人の受け周りの仕事総量が企業体の総生産に比例する事から

何を以て能率を測るのか?疑問が噴出する。

 

こうした、政府・政財界が描く絵に描いた餅は

仕事現場の認識に反映しないのはいつもの事で

テレビドラマで「事件は現場で起きている!!」なんてのも

 

ある意味下層に居る民草の切実な悲鳴に共振したのかも。

 

とにかく、実労働収入で財務が豊かになったものは

いると言えばいるし、変わらないものもいる

下がったぞ!という人も少なくない。

 

非正規雇用が増えたせいで

求人にあぶれる人は目立たなくなったかもしれないが

総人口の平均収入は400万

因みにアメリカは1000万だ。

 

日本人の資産を預金外で考えれば

少し変わるけれど、国民の安心感を満たせる

経済社会には少し遠い。

 

所得が上がらなければ手に届かない夢を見る事もしない。

極当たり前な構造だ。

 

輪を掛けて緊縮を訴える国政

 

増えない所得と増えるサービス残業

鍵ある人材に限りない労働量を強いては

自殺者を出す。

 

「会社の仕事とは一切関連御座いません」

 

「死人に口なし」とはよく言ったもので

全力で責任を取らない為に何でも言うし

何でもする。

 

薄情な経営陣だらけ

 

カレー一杯腹に入れては

さあ、後半も頑張ろうと自ら気持ちを鼓舞しては

戦線へ戻っていく。

 

「何をしてくれるかより何が出来るか」

労働者に対して、又は新卒新入社員へ向けて

そんな文言が流布していた。

 

馬鹿な経営者が

何もしてあげられない自分を棚に置いて

目下の者に出来高を上げろと言わんばかりに問う。

 

景気も物価も市民生活も

今や見せかけの体裁に紛れて見えにくい

 

努力するものが恵まれない

公示されている数値の陰には

それが不文律である証として大勢の犠牲者がいる。

 

時代と共に全てが洗練されていたのなら

政治家が的外れな失言を漏らす事もないだろう。

 

一番変わる事を恐れている奴らがいるのだから。