診療録の記載とかに


寄り添い、傾聴を続ける



そういうことばを見かけると


もやもやすることが

昔からあった



大事なことなのに

なぜもやもやするのか



言葉になるようなならないような

そんな気持ち



自分も歳を取り

色々経験して

感じることがふえたのか



「もう死にたい」

「こんなにつらいなら、迷惑かけるなら

もう死にたい」

「がんばれない」



こういう言葉をきいたとする



なぜ今

なぜこのタイミングで

なぜ


その言葉を口にしたのか


口にするまでに


どれだけの思いがあったのか




病をみるのでなく


そこにいる人間をみる




寄り添う姿勢があったが故に

はっせられたのかもしれない


寄り添わないよりは寄り添う方がいい



寄り添うことがいけないというわけではない



寄り添う



でおわらずに



さきにつないでいくことが大事だと思うのだ



寄り添う



と記すだけでなく



思いを馳せていくことが大事だと思うのだ




わたしは


寄り添う、としるせない


そばにいる、としか

表現できないのだ




いつ

寄り添えたって

思えるんだろうと日々修行だ





そして考える


わたしが

その立場になるとき

寄り添ってほしい、と

思うのだろうと感じる



誰でもいいわけでなく


そのとき

話したいひとが

話せる人が

そばにいてくれたら

安心するだろうな、と




と、すると



寄り添いを感じられる

関わりが大事で



寄り添いというのは


それを必要とする本人が


きめていくものなのかも





わたしは

ジロウにこまちに

寄り添われていると感じる時

幸せだ



彼らは無理にはよってこない


ふ、とそばにいるのだ



そして、ふ、と立ち去る




最高の

寄り添い屋だ