義父は旅立ちの準備をして
旅立ちました

さて
そのことを
どう義母に伝えるか


義母は
夫が病気であることも
認識できていないのですから
まして、お別れ、なんて


私達でも悲しいお別れに
母の気持ちがついていけるのか

病院で朝亡くなり、
真っ先に孫がかけつけ
息子とともに
退院
病院で混乱するのをさけるため
まずは自宅に戻って
そこであわせよう、と考えた


妻を自宅に
つれてきて、
なんてつたえようかな、とかんがえて
いたら


普段は使わない和室に義父は
ねていたのですが、

そこに
義母は入って行ってしまった💦


あー
ときすでに遅く


「だれか、ねてるよ?」
「だれ?あのおじいさん?」
「おとうさん。どこいった?」
「あれ。困ったねぇ」


夫が亡くなっていることなど
みじんにも感じていない…


それがまた、悲しい



病気だったこと
亡くなったこと
つらくないこと
丁寧につたえた


「えー!そんなはずないでしょ?」
「おとうさんさがしにいこう」
「死んだ?そんなはずないわ」

一緒に行きましょう、と
義父にもう一度会ってもらう


「あれ、なんで?」
「どうして?」



いくどもくりかえした
いくども。

亡くなったことを
繰り返し口にする自分が
辛くなってきた

と、


「おとうさん、なんで起きないの?」
「まさか死んだ?」
「えーっ」


部屋をでるとまた繰り返し。

施設に一度もどることにした。
そばに、と思ったが
難しかった。
家族の気持ちがおれそうだった


お通夜、御葬儀


いずれも
義母は
遺影をみては、あれまーと
おどろき、
だれの葬儀かと尋ね

火葬場でも
なんでここにいるのか?
だれが亡くなったのか、と尋ね




それがより
みなの悲しみを
強くした



私は考えていた
こうやってなんどもなんども
死を感じて、また、忘れ
また、
死を感じて


通常なら、だんだんと順応する

でも
毎回新鮮に

死を感じさせ



それが正しいのか?

義母のなかに義父がいるなら

それでいいんじゃない?

身体がきえても
魂は義母のなかにいる


これ以上
義母の心に波をたてないほうが
よいのではないか、と



息子、とくに義弟は
わからせるべきだ、と
遺影を部屋におくといった


わたしは違う、と言った

いつか義母が

どうなった?とたずねたら
遠くに旅立ったことを、言えばいい
施設の方にも相談した


「おかあさまの心が安寧なら
わざわざ知らせなくていいように
思います」



息子達に話し合ってもらった





結局


義母がきにしたら伝える


これで様子をみることにした



四十九日法要のとき

やはり、義母は
認識していなかった

「おとうさん仕事から
かえってこない」
「おそいねー」



いや、わかっているのかも

わかっていて

“かえってこない”

のかも、とふと思う


肉親、夫婦の死別の悲しみは
何にもかわらないほど
人生最大の悲しみになる


通常は
1か月くらいで、日常にもどる
でも

複雑性悲嘆になると
行動や生活に影響がでる


そういういみでは
義母の心はある意味
守られているのか、な?


いまだにこれでよかったのか、と
考えることもある



結局
一回しか
通らない

お別れ

家族はやっぱり
大事


せめてつらくなさそうだったことは
義父にとって
よかった
それだけは思える