本澤二郎の「日本の風景」(5064)

<福田康夫は森喜朗・小泉純一郎・安倍晋三の偏狭なナショナリスト(神道靖国参拝派)とは全く違うリベラリスト>

この10年は、極右の安倍・清和会に対して厳しい批判を繰り返してきた。理由は平和憲法(9条)を破壊し、再び日本を戦争国家に逆転させるのみならず、戦前の国家神道復活(20条違反)を狙う戦前派のA級戦犯の岸信介路線にのめりこんでいたためだ。いわゆる偏狭なナショナリスト勢力の政治に警鐘を鳴らしてきた。「憲法人間」の義務といえる。

 

対して清和会創設者の福田赳夫の倅・康夫は、神道「神の国」を信仰する森・小泉・安倍とは明確に一線を画してきている。康夫は正しい歴史認識の政治家として、靖国参拝派の仲間に入らなかった。

福田康夫の口から改憲軍拡論は飛び出すことはなかった。いわんや靖国を参拝することもなかった。

 

<笹川ギャンブル財団のカネに手を出さない>

そして大事なことは、岸信介内閣以来、自らもA級戦犯として岸信介の仲間として、暴力とギャンブルを抱き合わせた利権屋の笹川ギャンブル財団との接触を回避してきた。

笹川ギャンブル財団は、清和会のみならず公明党創価学会やカルト教団・統一教会国際勝共連合を抱きかかえている、不当な極右の政治勢力で知られる。

 

笹川の後継者が山梨の広大な別荘地に安倍・森・小泉・麻生太郎を呼びつけて、昼にゴルフ・夜は大宴会を開いている映像がネットに

露見している。多くの国民も目撃している。しかし、福田康夫は悪党の一味に参加しなかった。

康夫の父は笹川の不浄な金に飛びついたが、康夫は遠慮して信念を貫いた。高く評価したい。

 

<日中友好外交を続けるまともな歴史認識の人>

「神の国だ」と狂気の信仰にこびりつく森・小泉・安倍らの政治思想は、岸と同様に反共台湾派でも知られる。高市早苗を含む清和会幹部は、安倍にしたがって台湾独立派との関係が深い。岸・安倍の亜流・麻生もそうである。

戦前の歴史認識・皇国史観に取り込まれた極右の面々であって、正統な保守派では全くない。このことについて最近の政治記者も気づいていない。特に安倍の腰ぎんちゃくで知られたNHKの女性記者やTBS強姦魔は認識していない。

 

福田康夫は、岸政治と異なる信念の持ち主だと断定できる。護憲リベラリストかもしれない。今も日中友好の活動を展開して、極右を暗に批判し、抵抗している。国民が信頼できる真っ当なリベラリストといえる。彼の息子はどうか?

 

<護憲リベラリスト・宮澤喜一の薫陶を受けた康夫>

筆者は、康夫が官房長官時代に戦争神社として歴史上総括され、失墜した原始のお祓い教にのめりこんで、靖国神社参拝を強行する小泉首相に反発して、無宗教の記念碑を建立しようと汗をかいたことに驚いた。

彼の真っ当な歴史認識に敬意を表した。しかし、この素晴らしい政策推進は、靖国派の小泉と安倍に封じ込められて成功しなかった。

同時に、清和会のリーダーとして、なぜ保守本流ののリベラリストなのか?不思議でならなかったのだが、ヒロシマを拠点にして活動する中国新聞の宏池会担当の大平記者の意外な情報に接して正解を手にした。

 

なんと彼は、戦後外交の生き字引ともいえる元首相で護憲リベラリスト・宮澤喜一に師事していたのだ。吉田茂・池田勇人の対米外交を担っていた宮澤の下で、官房長官・福田康夫は「三顧の礼」よろしく日本外交の真髄を学んでいた。

今の岸田文雄とは大違いだ。岸田は宮澤の教えをどぶに捨てて、岸と安倍に服従したが、康夫は違った。むろん、理由がある。福田赳夫も自ら政権を担当した時、派閥は異なるが、宏池会の宮澤を高く買っていて、閣僚に起用している。おそらく父親は「何かあったら宮澤の下に行け」と生前、教え諭していたのであろう。

 

<福田赳夫もA級戦犯の岸信介に傾倒せず>

数年前に福田赳夫側近の秘書から「岸と福田」「安倍晋太郎と福田」との微妙複雑な関係を知らされた。福田側近の田中龍夫からは、福田と岸の微妙な関係を聞いていた。安倍と田中はライバルの関係であったが、そのことも岸と福田の知られざる仲を聞き出すことに成功した。そのころに安倍の息子の評判も聞いていた。その一つが「米国留学中に麻薬を覚えた」と。目下、醜態をさらけ出している「神の国」を豪語する森喜朗は、岸派そのものだった。したがって岸の孫である安倍晋三は、森を信用した。森は、岸が反中台湾派の別動隊・青嵐会を結成した時、率先して指先を斬って参加のための「血判」を押した。

青嵐会はやくざ軍団そのものだった。むろん、やくざの浜田幸一や三文作家の石原慎太郎も「血判組」となった。

 

福田赳夫は、岸の要求に対して相応の抵抗をしていたという。岸は満州の傀儡政権で麻薬利権に手を出したが、当時、大蔵省の役人として大陸で勤務していた福田は、相応の歴史認識を学んでいた。康夫は幼くして日本が侵略した中国・東北地方を母親と一緒に旅している。歴史の実情を幼くして目撃していた。

岸と福田父子の歴史認識は異なる。満鉄勤務の田中龍夫もまた、岸の歴史認識と異なっていた。彼が改憲軍拡を口にしたことなど聞いたことがない。米謀略機関のCIAと手を組んで復権したA級戦犯の岸と福田父子は、安倍父子とも落差を感じる。

 

<岸の娘婿・安倍晋太郎の総裁選出馬のさい、中川一郎支援>

安倍晋太郎の天下を夢見る岸と福田の落差は、言うまでもなかった。安倍晋太郎がポスト中曽根の総裁選挙において、福田は一部の仲間を中川一郎の推薦人にしている。

これは晋太郎にとって衝撃的なことだった。選挙後に「仲間に裏切られた」と憔悴した中川の姿を記憶しているが、彼は地元の北海道に戻ると、自ら命を絶った。晋太郎も徹夜麻雀で五体がガンに侵されていた。清和会は人柄の明るい三塚博へと継承されていく。その後に森へ。小渕恵三の急死で幹事長だった森が、談合の末に天下を取った。そこから日本が狂いだす。

余談だが、すい臓がんで倒れた晋太郎に一番衝撃を受けた永田町の住人は扇千景だった。安倍家には女難の相があるという。

 

<日中平和友好条約締結秘話初公開>

福田赳夫内閣に時計の針を戻す。田中・大平の日中国交正常化の次に平和条約を締結することが日本外交の最大の課題となった。自民党幹事長は、日中共同声明をまとめ上げた大平正芳(宏池会会長)。福田の背後に岸が張り付いて抵抗していた。この岸を棚上げすることに大平と、ロッキード事件裁判で目白に蟄居中の角栄の見事な作戦が、本日の小雨のたびに開花している梅の花を見ているようで、やや感動的な心境に立たされる。

 

福田も期するところがあったと思われる。「岸排除・棚上げ作戦」である。福田赳夫は外相に参謀役の園田直を起用した。阿吽の呼吸なのか。幹事長の大平は目を細めて、歴史的な外交史を彩る作戦に身を投じてゆく。

頼みの角栄は目白に、事実上、封じ込められている。のこのこと目白に出かけることは許されない。二人は知恵を出した。角栄と大平と園田の連携のために、不可欠な信頼できる口数の少ない見識のある政治家を外務政務次官に送り込むことだった。自慢話を吹聴するような軽薄な政治屋は起用できない。

 

園田直外相攻略に田中角栄は信頼できる側近の愛野興一郎を選択した。そうすることで、大平と目白の意向は即座に外相の耳に届く。園田もなかなかの侍だ。時には口が堅い。この点は松野頼三と違う。福田が派閥の参謀に園田を起用したことは正しかった。反中台湾派の本尊である岸の耳をふさぐ布陣は完璧だった。

愛野興一郎は、宇都宮徳馬と同じ佐賀の人、開明派である。この人選に福田も園田も満足した。岸封じの成功が、平和条約締結のカギを握っていた。

 

もう一つの課題が、中国政府をどう納得させるのか。これに大平は腐心する。福田派は反中勢力である。背後に岸がついている。その福田の下では平和条約締結は不可能だと北京は思い込んでいた。誰もがそう思う。その壁をぶち破ることに成功しなければ、条約締結は絵に描いた餅でしかない。大平の中国派遣の密使は、無名の鍵田忠三郎(元奈良市長)。大平と鍵田の関係は、奈良と西安(長安)姉妹都市第一号は、周恩来と大平のお陰で実現した。鍵田は中曽根派に所属していたが、心は常に大平に直結していた。中国の対日外交の窓口は、親日派の廖承志、周恩来の腹心である。

 

鍵田は何度も何度も廖承志と密談を繰り広げた。「福田内閣ではどう考えても不可能ではないか」という北京の判断は、72年以降の日本政治を見れば明らかである。「岸と福田が協力して平和条約を実現する」というような日本側の説明に納得できるわけがない。

二人はお互い大声を張り上げて喧嘩する有様だ。

しかし、鍵田の切り札に中国側も折れた。「共同声明を締結した大平を中国は信じないのか。大平が太鼓判を押し、それを伝えに来たんですよ」

鍵田は立派に大平密使を果たして帰国することができた。日中平和条約は福田赳夫の手でやり遂げられた。園田・福田の責任において。実質は愛野・大平・角栄のあっぱれな成果である。

こうした死に物狂いの成果を、森・小泉・安倍が破壊してしまった。その罪は万死に値する。偏狭なナショナリスト派閥も消えてゆく。しかしながら、彼らの骨格は温存されていくのかどうか。車いすの森喜朗の悪しき奮戦が今も続いている。安倍の亜流となった岸田もいるではないか。

本ブログは50年後、100年後の日本に生きる人々に日本の真実を伝えるためのものである。なんとか10巻1セットを製本することができた。まだまだ屈するわけにはいかない。ともあれ福田康夫の奮戦は、森とは異質の評価できるものである。

2024年2月4日記(日本記者クラブ会員・反骨ジャーナリスト・政治評論家)

 

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