以下、森田正馬全集より抜粋
理論の矛盾と飛躍
もし、本能療法(参考;「現在、日本で」手のひら療法・気功と思います。レイキ?)でも、
「吾人は絶大微妙なる本能の力があって、自ら病を治す働きがある。それは
自己暗示を起こすべき有効なものがなくて、身体の億兆の各細胞の自然活力である。その活動は、無意識的・自発的であって、各病者が自らその患部を目当てに、撫で揉み叩き運動し、活動するものである」ということを見もし聞きもしないとすれば、果たしてどうであろうか。
しかして、その原理というものが、学術的厳格とか、宗教的神秘とかという事の、人を感服させるものがあるほど、その効果があらかたである。
自己暗示を起こすべき有力なものがなくて、故意にこれを起こそうという事は、初めから無理なことである。
自己批判があって、常に疑い迷っているものは、精神が一途にならず、注意の固着ができないから、催眠術にももちろんかからない。
もちろん本能運動も起こらない。
これゆえに、神経質には、催眠術や本能療法のような、はなはだ便利で、しばしば大いに有効な方法が行われないのが遺憾である。
私が、昔、催眠療法のために努力したことも、この関係から、ほとんど療法として、用にたたないようになったのである。
観念運動ということ
なおここで、観念運動ということを、ちょっと説明しておくと、わかりやすくなる。我々はたとえば、何かの際に、寂しいという事を感ずれば、闇夜とかいうような観念が起こり、同時に身をすくめるという活動がおこる。
我々の精神は、感じと観念と活動とは、影が物体に伴うように、決して別々に存在する事はできない。同時に起こる現象である。
故に我々は、何かの考えが起これば、これに相当する表情・姿勢・活動というものが伴って来る。
いまなにか、空に高いものを想像すると、自ら気がつくと・つかぬとにかかわらず、自然に眼を上げる運動をする。
文字を読むとかすかに口に、言語運動が起こる。
軽業のあぶないところを見ると、手に汗をにぎるとかいうのもそれである。
何か心に思いつめていることがあると、気のゆるんだ拍子に、ふとそれを口走る事がある。
自動車の危険を恐れていると、その方へ吸い込まれるような気がする。
室内で、ある一定のものを思いこんでいながら、その室内をぐるぐる歩き回っていると、いつとはなしに、身体がその方に引きずられて行く。
これが読心術という遊戯の原理である。
コックリ様の動き出すのも、観念運動である。
この観念運動の複雑なものが,自己暗示によって起こる種種の活動である。
催眠術は、すなわち術者のいう通りになるところの観念運動であるのである。
(以上)
