昨日、テレビ朝日が、第二次世界大戦に米国が参戦する前の段階で、米国がイギリスに武器の貸与をしたことを報じたが、今日は、イギリスとソ連に貸与したと言い換えた。しかし、中国への貸与は報じない。日本の中国侵略に対抗するための貸与であるから、言及しないのだ。忖度報道の姿勢は変わらない。NHKを含めた他局より、少しはましだと言われるテレビ朝日にしてこれだ。

 

 ロシア軍による民間人虐殺が詳細に報じられ、世界に衝撃が与えている。しかし、民間人を殺傷して相手国の戦意を喪失させるのは近代軍事戦略の一つである。日本も中国で民間人の虐殺をした。南京虐殺も然り、平頂山虐殺も然り。侵略された国では、軍民ともに抵抗するから、侵略軍にとってはすべてが恐怖の対象となる。国では、やさしいお父さん、お兄さんが戦場では鬼となる。これが歴史の教訓だ。だからと言って、民間人虐殺を正当化することが出来ないのは当然である。

 

 アメリカが太平洋戦争で、日本の各都市を無差別爆撃し、広島・長崎に原爆を投下して無辜の市民を殺害したのも、戦意喪失を狙ったものであろう。この行為の当否について、公式には未だに人道的評価をすることさえされていない。第二次世界大戦後の1955年に起きたベトナム戦争は、北側がソ連の武器援助を受けている中で、米軍が南側の援助のために侵攻した。20年にわたるこの戦争で、200万人もの民間人が犠牲になった。このベトナム戦争の中では、アメリカ軍によるソンミ村虐殺事件が起き、400人以上の死者を出している。

 

 第二次世界大戦の反省に立った国際法を遵守する立場から、ロシアは当然のこととして、アメリカにも「正義の味方面」させてはならないだろう。アメリカ、中国、ロシアは世界の覇権主義三大国だと言える。日本の報道機関は、政府と同様に中国、ロシアに対する批判をするが、米国に対しては驚くほど従属的である。報道の自由が制限され、民主主義を抑圧する中国やロシアを批判することは重要であるが、米国や日本政府の不当性をもしっかりと報道するべきであろう。

 今日のテレビ朝日が、バイデン米大統領が「武器貸与法案」に署名したことを報じた。この武器貸与法は、第二次世界大戦に米国が参戦する前の段階で、ドイツ、日本、イタリアのファシズム三国と戦う諸国に武器を貸与することを当時の米大統領ルーズベルトの権限で出来るようにした期間限定の法律だ。今回、ウクライナへの武器の貸与を議会の承認を得ずに出来るように復活させたわけだが、報道では且つての「武器貸与法」について、「ナチスと戦う英国に適用した」と解説した。確かにイギリスに武器貸与を実施したが、日本と戦う中国にも、少額ではあるが貸与した。何故、ドイツ、イタリアと同様にファシズム国だった日本について触れようしないのか。愛国心教育を推し進め、戦争の出来る国へと歴史を押し戻そうとする勢力に忖度する報道が目立っているように思うのは私だけだろうか。

 

 ウクライナへのロシアの侵略は、武力行使を禁じる国連憲章に明らかに違反しているが、マスコミの報道は「国連憲章違反」には触れようとはしない。イラン戦争では米国も「国連憲章違反」をしていることから、忖度報道をしているのではないのか。国連憲章違反を物差しとしないから、「自由主義と専制主義の闘い」として規定することになる。これは世界を二分するものとなり、解決策を見失うだろう。勿論、専制主義国家は誤りであり、自由な民主主義国家が世界の大勢になることが重要だが、現段階で世界を分断することは愚策であろう。日本でも欧米でも、民主主義を後退させる策動がある中で、それときちっと闘おうしない今日のマスコミが、「自由主義と専制主義の闘い」などと声高に報じるのは恥ずべきことだと言えるだろう。

 池波正太郎の剣客商売を番外編も含めて読み終えた。立ち回りの描写や20人斬りなど非現実的な場面もあるが、気にしないで読み進めれば大いに楽しめる。娯楽としての読み物なのだから、論理性に拘る必要もない。何かを学び取ろうと思って読んだわけではないが、生きる上での人生哲学のようなものを教えられた気がする。

 

 『待ち伏せ』の話のところで、父の小兵衛が息子の大次郎にこう語る場面がある。「わしとお前が見たご隠居の二つの顔の、どちらの方もご隠居の顔じゃ。人間という生き物は、みな、そうさ。わしなぞ、10も20も違う顔を持っているぞ」。ぶれない一貫性のある生き方は、ややもすると頑なになりかねない。秋山小兵衛すなわち池波正太郎は、人間を「辻褄の合わない生き物」として見ているのかも知れない。融通無碍の中にも、「真(まこと)」を通すことを大事にしているようだ。

 

 「剣客商売」の次は、同じく池波正太郎の「鬼平犯科帳」を予定していたが、図書館には文庫本の第1巻はあるものの、2巻から10巻までが貸し出し中。どうしようか思いあぐねていたところ、大岡昇平の全集に行き当たった。大昔、「レイテ戦記」を手に取った覚えがあるが、読破したかどうかも、小説の内容も記憶にない。ウクライナでロシアによる侵略戦争が行われている今、一読するのも良いかなと思って第1巻を見ると、「俘虜記」だった。大岡氏が35歳で補充兵としてフィリッピンに派兵され、捕虜となって収容所に送られた経験をもとにして書かれたものだ。

 

 敗戦後に書き始めたが、米兵についての記述もあるので、米国による占領下での発表は躊躇され、1948年になって、「俘虜記」の最初の章「捉まるまで」が発表されたという。「剣客商売」と違って内容に重いものがあるが、戦前の軍隊教育を受けた兵士が捕虜になって、様々な実態を洞察した描写は見事だ。まだ、読み始めたばかりだが、暫くの間、大岡昇平を楽しめそうだ。

 剣客商売の番外編「黒白」を読んでから、「剣客商売全集」第1巻~第4巻まで読んでみた。全部で8巻だから半分だ。多くの人が手に取って読んだと思われる図書館の本はやや傷んでいるが、通読して楽しむには何ら問題がない。

 

池波正太郎氏は優れたストーリーテーラーだと言われるが、なるほど「言えてる」と思うところが随所にある。説明をだらだらしないで、違う場面に移ってから続きの説明を入れて理解できるように仕組まれているのだ。読者はその間、鼻っ面の餌を追いかけて、先へ先へと釣られていくのである。

 

江戸時代の古地図を横に置いて読むと面白いと思うが、そこまですると勉強になってしまうので、「学ぶのではなく楽しむ」という趣旨にそって読み過ぎる。また、江戸時代の庶民の料理や衣装についても詳しい記述があるが、えいっ!とばかりに読み飛ばす。こんな調子だから、全集版4冊は文庫本8冊にあたるが、忽ちのうちに読んでしまった。

 

江戸時代の話なので、時代の制約からジェンダー問題などで目くじらたてる必要はないが、ゲイやレズの話も出てきて面白い。因みに「ゲイ」は「念友」と言うようで、そこには差別の意識は微塵もないようだ。江戸時代の方がまともだったのかも知れない。

 

 主人公は60歳過ぎの秋山小兵衛と息子の大次郎で、更に大二郎の妻になる三冬と小兵衛より40歳年下の妻・おはるが主たる登場人物である。大二郎は先妻との子供で、三冬とおはるは同い年という、とんでもない構成である。秋山親子と三冬は剣客で、おはるは秋山家の女中だったが小兵衛が手を付けて後、祝言を挙げたのである。

 

 ある時、小兵衛が柄にもなく病気になり、馴染みの医者に掛かり、大二郎が薬を貰いに行くと、「毛饅頭を食べれば直ぐに良くなる」と言われた。帰った大二郎は小兵衛にそのことを告げると小兵衛は「ふん」と言って取り合わないので、三冬に「毛饅頭」って何だと聞くと「分かりません」と。若い者はこんなことも分からない!と言う書きっぷりなのだが、私もこの時点では「どんな饅頭」なんだろうと思っていた。若くはないのに!

 

 このように開けっ広げな助平表現も各所にちりばめられており、気楽に読めるのである。また、善悪についても突き詰めるのではなく、大局的に観た判断をするというおおらかさを大事にしているようだ。小兵衛の言葉として「真偽は紙一重、嘘の皮をかぶって真(まこと)を貫けば、それで良い」としている。

 

 池上正太郎の前に谷崎潤一郎を読んで感想をこのブログで書いたが、それ以前に谷崎については「文章読本」しか読んだことがなかった。その「文章読本」について文芸評論家の斎藤美奈子氏が東京新聞のコラムに書いていた。この文章読本で谷崎は「私は、文章に実用的と芸術的の区別はないと思います」と書いており、斎藤氏は「これはなかなかの爆弾発言」だったと言う。それに対する多くの反論が出されたが、同氏は「論理性と文学性は両立する」として谷崎を擁護している。

 

このコラムは新年度から高校の国語教育が変り、従来の「国語総合」に代わり、新しい必修科目は論理的・実用的な文章を扱う「現代の国語」と、文学に特化した「言語文化」に分けられることへの批判である。必須の論理国語が優先され、文学作品を読まなくなることへの危機感だと言える。私も谷崎の小説もエッセイも論理性と文学性が両立しているとの思いを持った。心理描写などは論理的で、様々な可能性を念頭に置いた描写は納得感のある感動を作り出しているように思った。

 老いを楽しもうと思ったことから、かつてノーベル文学賞の候補になった谷崎潤一郎の小説でも気楽に読もうと思って全集の後ろの方から読みだした。全集を読みながら、谷崎潤一郎と言えばマゾヒストだから、「性倒錯」とは、「レスビアン」とは、「フェミニズム」とは、と続いて、上野千鶴子に辿り着き、先日、上野と鈴木涼美の往復書簡「限界から始まる」を読んだ。何れも面白かったし、ジェンダー問題への関心が深まったし、勉強になった。しかし、そもそも為になる読書ではなく、ただ楽しいだけの読書をしたいと思ったのであって、どうも違う方向に向かっていること気づいた。ロシアの諺「100年生きて100年学び馬鹿のまま死ぬ」ではなく、「あと5年生きて5年学ばないで馬鹿のまま死ぬ」でいこうと思ったのに、学ぼうとしている馬鹿な自分がいるのだ。

 

 NHKの朝ドラ「カムカムエヴリバディ」で時代劇映画の衰退が描かれているが、時代劇の小説で楽しめるものはないかな?と思った。時代劇小説で読んだことのあるのは、司馬遼太郎とか山本周五郎などだが、司馬は権力者側の視点かなと思い、周五郎の方が良いかなという認識だった。そういえば何十年も前の事だが、不破哲三さんが「池波正太郎」を読んだという記事を見たようなことがあるようなことを思い出した。あまりにも前の事なので不確かであるが、庶民目線であることを評価していたような気がした。池波正太郎なら、勉強ではなく楽しみながら読めるのではないかと思い、図書館の本を漁った。たまたま出会ったのが「黒白(こくびゃく)」だった。「剣客商売」の番外編だ。解説者によると、「黒白」は池波文学の世界を暗示しており、作者の哲学を示唆しているのだと言う。そして、『できることなら「黒白」をまず読んでから「剣客商売シリーズ」を読んで欲しい』と言う。では、そうしてみようと思った次第である。