私は、1969年10月23日愛知県蒲郡市で生まれ

父が「努」と命名しました。

 

 

出生時の事を小学校高学年の頃かな?

母から聞いたことがあります。

 

その事を綴ります。

 

 

と、その前に父の事を少し紹介します。

 

父は1928年3月長野県生まれ。

1952年、24歳の時、ダイナマイト爆破事故により

右手の手首から先と左眼を同時に失いました。

その時の痛み・辛さは私にはとても想像できません。

 

なぜそんな事故に?

 

終戦から7年、日本経済も力をつけ様々なモノが誕生しました。

トヨペット・セダン

自転車用補助モーター「カブ号」

コカ・コーラ など

以下、参照

https://jaa2100.org/entry/detail/041663.html

 

欲しいモノがたくさんあったんでしょう。

海でダイナマイトを使って魚を獲り

それを売ってお金にしようと!

父を含めた若者でたくらんだんですねー。

 

時効なのでお許しください。

 

でも、その代償は大きかった!!

 

 

 

 

はい!話を戻します。

 

オギャーオギャー!!生まれた!

父、41歳

 

待ちに待った我が子との対面

 

 

そこで知った現実・・・

 

 

母も直ぐに抱きたかったでしょう。

 

でも、一向にその瞬間は来ない。

そして、夫も姿を見せない・・・

 

待望の子どもが生まれたのに!!

 

 

母は、不思議に思ったと!

 

そして、子どもに何かあったのか・・・と。

 

 

その訳は、すぐに判りました。

 

私の手にも障がいがある事を知った父はショックで倒れ

会いに来れなかったんだと。

 

 

 

父と母は、自分達だけでなく我が子にも・・・

 

という現実をすぐには受け入れられなかったのでしょう。

 

 

 

自分達が経験してきたハンデのある人生。

 

どう育てよう・・・

どう護ろう・・・

 

 

 

「努」と名付けたのには、名前のとおり

努力する子になって欲しいという願いと

自分達も負けない!!という覚悟があったのだと思います。

 

 

そんな心配をよそに私は育ちました。

 

 

子どもは強い!!

どんな時もたくましい!!

 

 

 

 

時には父の目となり、母の耳となり

 

また時には、わがままを言い、駄々をこねては困らせてきたでしょうし

 

いたずらして叱られても無邪気に笑い、両親を笑顔にしてきた事でしょう。

 

 

 

 

ぼくの手、ママの手、パパの手の違いを

どう思っていたか?

 

 

記憶にはないんだけど

 

 

なーんにも意識してない感じだったのかも!!

 

 

そのままでいればもっともっと楽しかったのかな?

 

 

 

大人になるにつれて、ついつい人と比べちゃうし

うらやんだりしてしまう。

違いを素直に受け入れ、認めちゃえばいいのに!

 

 

 

 

隣の芝生は青く見える

 

ちょっと違うかもしれませんが

指が10本あったら

あれもできたのに!

こんなに悩むこともなかったのに・・・と。

 

 

暗い話になっちゃいましたが、今はそうでない事

つまり、この手でよかった事!

ふたりの子どもで良かった事を付け加えておきます。

 

 

そして、先ほどの写真をスマホの待受け画面にし

へこんだ時に自分を鼓舞している。

 

 

 

みんなと違っていい!!

 

それが、君だよ!

 

ありのままでいいんだ!

 

 

 

ここに至るまでには

まだまだ何十年という月日が必要だったのですが

それは、また綴ります。