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高床とゲル

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川端康成を読むのは、いつ以来だろう。

裏表紙に「ノーベル文学賞対象作品」と書かれている。なんだか納得する。

茶器が実は主役ではないかと思えるような小説だ。

その茶器の持つ風情、茶道のかもす空気、それに伴う茶室の佇まい。

そこに季節や時刻で移る景観が綴られる。

その中で、美と醜、高貴と卑賤、純潔と汚濁、罪過と贖罪が、

明確な思想性を示すのではなく、感覚的なものや同定しがたい美意識で語られていく。

溢れるような生活感と厚かましさの前で、対峙するような姿勢も示さずに、

いわば流れていくように進む時間。

そこでは、確かな美意識があるはずなのに、

それは、美意識を告げられた途端に、美のはかなさを帯びてしまう。

意味合いは違うのかもしれないが、大江健三郎が語った言葉を使えば、

どこまでも「あいまいな日本の私」。

それが文章から醸し出される風情の中に包まれていく。

これで終わったとしてもいいのではないかという「千羽鶴」。

だが、そこに続編「浜千鳥」がある。

では、「浜千鳥」で終わったのかと言えば、むしろ、この続編があることで、

不思議な宙づり感が残る。

過ごしゆく日々の中では、回収しえない事柄だけが残り、続いていく。

それらを手渡していくように、多くの人々の手に取られて時代を超えていく茶器。

いつのまにか小説の主役は茶器に奪い取られていくようだ。

「浜千鳥」の別府から竹田までの描写は、

描写に賭けた川端康成の思いが伝わるような気がした。

実は、自然に解消し得ない「私」がここにはいる。

その点では、日本文学の伝統からは意識的にずらされているような気がした。

随所にかつて新感覚派の一人と言われた作者の感性が捉えた描写が配置されている。

川端康成にとって、横光利一はたいへんだっただろうが、

三島由紀夫にとって川端康成はたいへんだったかもしれない。