iTunesが自動的に表示してくれるリストを見ながら、ふと思った。「ブック」のジャンルでもないかぎり、トップはほぼアプリだ「葬儀」だけはそうでないのが面白いが。「フランス語」のトップもアプリなのだが、そもそも電子書籍が少ないからだとも言えるのだが、辞書でさえ、トップになれない。

そんなリストを見ながら思った。

じつは、このフランス語でトップを飾るアプリを作っている会社を知っている。というより、一緒に仕事をしていて、彼らの努力をよく知っている。彼らは金を積んでこのソフトを作った。ただ心配なのは、弊社の電子書籍とは同レベルでないにしても、このジャンルでどれだけペイをできるだけの収入があるのか。それを考えると、アプリというのは賭けみたいなものだと思う。

そもそもソフトウエアビジネスというのは、そんなものだ。語学の版元でDS版を作ったがまったく売れなかった例も聞いているし、すでに書いたことだが、アプリケーションは販売のチャネルをもたない。

そもそもいま言われている電子書籍の役割とは何か。それはソフトウエアを作ることではない。コンテンツを流通させることなのだ。これまで紙ベースでしかなかったものを電子ベースで流通させることなのだ。このことは忘れてはいけない。だから1本だして、投資金額を回収するモデル、ソフトウエアのビジネスモデルではないのだ。

先日ある版元の編集者と、お互いの会社ではどういう形で出版計画をたてるのかという話をした。たいていの会社の場合、およその原価計算をし、売れ部数を考えて、広告費がいくらであるとか、計算していく。そうして導きだされた予算内で本を作って販売するのである。

だから、というか、当然、デザインの費用やページメイクの金額は、売れそうもない本ならばどんどんと下がっていく。しまいには、編集者が自らがDTPをやって本を作ることにさえなる。

しかし、そうやって作った本が売れるのか?という疑問が残る。本は装丁がすべてではないし、内容がすべてだがどんないい内容の本であっても、適切な表現がなければ、読者にうまく伝わらないことだってある。そのためにかけるお金は決してマイナスではない。むしろ、それこそ賭けなのかもしれないが、そのプラスにつながるだろうところでお金を削ってはいけないのではないか?

結果的に、いろいろあれやこれやと原価計算したところで、当初5000売れる計算だったのが、1000も売れなかったら、そもそも赤字である。何か、この計算方法は、出版計画の立て方、立て方のほうが問題というよりも、それに従わざるを得ない、従ってしまって、何か本の可能性を見落としているようなやり方に疑問を持つ。

私が社長なら社員に計算をさせる(というより、ソフト化して計画を書き入れたら出せるようにするだろう)。幸いにいまの社長はそれを社員に強要しない。それが強みでもある。しかし私は計算をしている。およそ当たる。それは、それだけのノウハウを積み重ねているからだからだが、それはあくまでも目標であって、守るべきものではない気がする。所詮、本なんて生き物だ。売れる時期があって、売れない時期があるし、どう売れるか予想できても、予想にすぎない。それが絶対であるなんて、どんな状況にあったって言えない。一つの小さな努力が、大きな結果に繋がることだってないとは言えない。そんなことは、日々の出版業務のことでわかっているはずだ。

要は、こうした出版計画のあり方こそ、ソフトウェアのビジネスモデルにそっくりだ。
それは、電子出版のビジネスモデルとは違うはずだ。というより、その違いをしっかりと理解すべきだと思う。そもそも出版社が儲かるというのは、1冊が売れることではないはずで、大手のソフトウェア会社が儲かっているのも、1本だけを売っているわけではない。そこには、さまざまなアイテムがあって、そのアイテムが総じて、売れることによってまとまった売り上げになっていく。まず、そこが電子書籍の市場において成立させることができるかが、電子書籍をやっていく際には大切なのだ。

アイテムの売り上げ総体をどう作り上げるか。ビジネスモデルとしてそうした総体を実現できるやり方かを考える必要がある。だから1本にお金をかけ、1本のなかで収支を考えることは、いま求められているビジネスモデルではないと思う。
最近もまたいろいろなことを人から見聞きした。そんなことも咀嚼できたらぜひ買いてみたいと思うが、かなり業界内部に秘められた問題を含むので、直接的な書き方は難しいかもしれない。でも、おおよそ、間違いなく出版業界は、出版業界らしく、自分たちのビジネスをやってきたことは事実で、失敗だったか、成功だったかのか、功罪と問いつめることは虚しく、だからと言って、現在を悲観する理由も、未来に失望する理由もない。ただ、そこで無知にせよ、巧んだにせよ行われていたことを知り、どうであったのかをきちんと判断することは必要なのだろう。

かれこれ私が、私の「電子書籍の衝撃」を受けてからほぼ1年が経とうとしている。確かあれは11月の勉強会のことだった。それから2つ電子書籍を作ったことになる。それでもたった2本である。3本目の準備があるが、いまは忙しくてなかなか先に進めることができない。いずれにしてもまた、しばらくすればさらにアイテムを増やすことになるだろう。でも、1年に2本ではまだまだ辛すぎる。

それはともかく。
いろいろと考えていて、このブログに書こうと気ままに文章を書いていたら気がついたことがあった。
現在の「消費のスピード」に電子書籍はそもそもついていけるようなものなのか。

「消費のスピード」。例えば、フランス料理のフルコースを食べる時、このコースを消費するには一定の時間が必要となる1時間か、あるいは2時間か。少なくとも消費者は、フランス料理を食べるということは、こうした時間を使うことだと考える(まあ、考えていない人がいたとしても、とりあえずそのような場と理解してほしい)。もしこの同じコースが、あるいは、ほぼ同等のコースがコンビニでワンプレートで販売されていたとして、それを食べた場合、同じ内容のものを消費しているが、消費のスピードは異なる。おそらく、1時間も欠けずに食べ終わるだろう。これにより、販売するときの単価が変わってくる。

もちろん仮に、制作コストが同じであれば同じ価格で販売されるのだが、消費者がこれらを購入する場合に、コンビニで販売されているコンビニフレンチのほうが割高に感じるに違いない。そう、これまでは制作する側の話だったが、今回の話は、消費する側の話である。つまり、ここに「消費のスピード」が関係する。ある同じ金額のものを同じ時間で消費するときには、短い時間で消費されるもののほうが、損な気がする。一方で、じつはその反対も真であって、逆に極端に早い時間で消費されるほうに価値を認める場合もある。

例えば、フランス料理を食べるのに1時間はもったいないので、早くサービスをしてほしいと要求することはできる。いっぺんに持ってきてもらうことだってできるだろう。このときに、この消費で消費されているものが、前者、つまり、レストランで食べるのか、コンビニ弁当を食べるのかで消費しているものが異なる。コンビニ弁当を便利と思うのも、この「消費のスピード」が関係していて、手軽である、ということが価値になる。本来ならそれならば料金を高くしてもいいようなものだが、工場等の生産であるので安くなっている。これはまた別の問題である。

もしコンビニ弁当が売り上げがのびたとすれば、値段の問題よりも「消費のスピード」によるものが多いのではないか?また、外食産業がいま伸び悩んでいるとすれば、値段よりもこの「消費のスピード」に変化があったと考えるべきではないのか。つまり、それはテーブルについて食事を囲む時間というのが、なくなりつつあると過程してもいいのではないか。

さて、同じことを本で考えて見よう。新書というのは、ある意味では、この「消費のスピード」の優秀な形態である。時間がないなかで、簡単に知識が手にはいるという意味では、いまのネット社会のスピードについていこうというメディアである。その点で評価できると思う。ただし、ネットの「消費のスピード」にはついていけていない。こういう言い方もできるかもしれない。そもそもネットの「消費のスピード」について来れない人間のためのメディアであるかもしれない。

辞書とは、完全にこの観点からは時代遅れのメディアであると言わざるを得ないのは明らかだろう。ネットのほうがはるかに優秀な消費のスピードを実現しているし、同時に、辞書ほどこうしたネット的「消費のスピード」に適ったコンテンツであったわけだ。電子辞書と呼ばれるメディアは、登場したころは、紙の辞書よりはるかに優秀な現代社会に合った「消費のスピード」を実現した。それによって成功をもたらした。

もちろん紙の辞書にもそうした時代はあった。百科事典が売れた時代、百科事典はこうした「消費のスピード」がもっとも時代に適った商品であった。だから売れた。しかしいまは、いまの社会の「消費のスピード」に適っているのは、ネットであり、ブログであり、ツイッターであるわけだ。そうした社会で、紙の百科事典、あるいは紙の辞書が売れると想像するのはなかなか難しい。基本的には、その社会がもつ「消費のスピード」に適ったものが、もっとも消費を実現することのできる商品だと言えるだろう。

では電子書籍はどうか、書籍という体裁をとる以上、書籍という商品としてのコンテンツである以上、こうした時代の「消費のスピード」に適っていると到底思えない。

新書を電子書籍化することは、おそらくもっとも電子書籍の「消費のスピード」をいま社会が必要としている「消費のスピード」に近づけることになるだろう、内田樹の本(彼はブログを本にしている)を、新書を電子書籍にすることはさらにいまの社会が必要としている「消費のスピード」にコンテンツを近づけることになるだろう。がしかし、それでもはるかにネット社会が要求している「消費のスピード」からみればほど遠い。

ではどうすればいいのか。おそらく多くの出版社が、理由は何にせよ、電子書籍を拒む理由として、漠然とあるいは、偶然に感じていることなのだが、書籍本来の「消費のスピード」をいまだからこそ実現していくことが必要なのではないか。それはネットから遠く離れることではない。共存するかたちで、これまで私たち、出版業界が、出版バブルのなかで失ってきた、本が本として必要としている「消費のスピード」を取り戻すことなのではないか。(続く)
忙しくて、なかなか書く時間がない。今回は端的に前回の話の続きを書こうと思う。

話がだいぶ逸れることになるが、そもそもデジタルコンテンツと紙のコンテンツとの関係とはどうあるべきなのか、という話。

もちろん紙のコンテンツであったものがデジタル化されるということは、いまでは当たり前のことのように思えるし、そう思えるのも、そもそも制作の基盤がデジタル化されているからそう驚くことではない。それ以前、所謂、写植の技術が紙のコンテンツを支えていた時代、また、ワープロと呼ばれる、それぞれが専用フォーマットを持っていた入力マシーンが支えていた時代は、いまよりは間違いなくデジタル化は、遠い場所にあった。

それでも出版業界には、さまざまなデジタルコンテンツが存在した。
もちろん、そんな時代には、データ作りから始めなくてはならず、ときには、作られるソフトウェアのためのデータ作りさえあった。データを直接読み込んでプログラムを組んでもいた。

この時代は、デジタルコンテンツ自体が別ものだった。だから、誰も共存の仕方を考える理由がなかった。それは現場のレベルにあってさえそうだった。

ではそうしたデジタルコンテンツはどうやって売っていたか。販売の販路はきわめて限られていた。ごくたまに本の付録としてついてくるだけで、単体での販売は、いまほどにパソコン量販店がない時代には、ごく限られたユーザーに向けて販売する、とても高価なものだった。

でもご存知の通り、いま事情は違っている。その違いは、歴然としている。この数年、考えなくてよかった時代を生きてきて、おそらく出版社は何も考えていなかった。デジタル部門があるところでさえ、おそらく本気での共存を考えていなかっただろう。しかし、この一年にも満たない時期に、考えなくてはいけなくなった。これが、危機感の根本的な部分であると思う。

何を考えるのか。デジタルコンテンツの紙のコンテンツの共存、ではない。もっともっと根本的なデジタル技術との共存である。

どういうことか。編集者がXMLの多少の心得があることが標準になっているか?データベースソフトを扱うことがデフォルトになっているか?様々なITメディアを使いこなせることが前提となっているか?

すべてについていまだに標準ではない。ではなぜ知る必要があるのか。そのことこそが、デジタル技術との共存、という言葉で強く言わなくてはいけないことである。それが、もう一つのアグリゲーションの必要性なのである。ただ、任せるのではなく、アグリゲーションじたいを版元が作り、コントロールすることが重要なのである。

その話がなぜ電子辞書の話になるのかというと、ある版元が決めたロイヤリティが現在のすべての版元のロイヤリティの基準になっている。そのロイヤリティの低さは、他の版元が、とくに第二外国語をやっている版元を長く躊躇させた理由である。私は、当初、版元の側にデジタルへの理解がなかったのではないかと思っていた。というのも、その版元の辞書をかつては下請けをし、その会社がのデータ加工力を知っていて、私は、この会社が楽して金儲けをしたのではないかというふうにさえ思っていた。

そう、デジタルデータはいかようにでも加工でき、さまざまなデジタルデバイスが利用できるものにできるからだ。

ここに何かが欠けてないか?と思うのは当然だろう。そもそも辞書は、何年もかかって人手をかけて作る物である。データの加工は、ものの数日で終わる。低いロイヤリティは、この部分をどう考えていたのか。私の長年のなぞである。今度、その当事者に会うことができたら真意を聞きたいと思っている。

いずれにしても、書籍と呼ばれるものは時間をかけてできあがる。その時間に見合う金額は、ほとんどの場合ペイできない。それならばせめて少しでも配分がまわるように考えるのが、版元ではないのか。そこが、電子辞書の件ではわからなかった。

私は、このことを単に当事者がデジタル技術との共存についてよく考えていなかったからではないかと思っている。

私たちが勘違いしてはいけないのは、本なり、出版物が、著者という個人の時間をかけてできあがるものであるということ。デジタル的加工の効率とはまた別の次元にあるものであるということ。

話が逸れてしまったが、私が考えるアグリゲーションが大切な理由はこうだ。最後の最後まで、出版社が守るべきものを守り続けるべきであり、そのためにアグリゲーションこそ、妥協してはならない、最後の砦のようなものであると思う。

…と勇ましいことを書いていながらあらためて思う。はたしてそんなことが最後まで貫き通せるか。電子書籍をやっている側に、こうした版元の気持ちがどれだけ伝わるだろうか。編集者である自分が、日々苦々しく思うのは、そうしたことである。