人生と”創造”の会オリノです。

 

昨日は悪ノリしたところがありましたが、今日は真面目に書きます。

 

イサクの燔祭は、アブラハムがなによりも神を信頼し、神の正しさを疑わず、自分の大切な息子の命より神の命令に従うことで、自らの信仰を証明して見せたという話である。

 

たとえどんなに大切だと思うものでも、それは人間的価値観に過ぎず、神と神への信仰の持つ神聖な価値の足下にも及ばない。

人間にとって、神を信仰することは何より大切なことであり、神の与えた試練を揺ぎ無い信仰心で乗り越えたアブラハムはその模範である。

といった話である。

 

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を信仰している人にとっては、よく知られた話であり、意味も上の通りだろう。

だが、信仰する者は教義・説教から教わった美しい面だけを受け入れ、信じ、危うい面・おかしな面は無視・拒絶する。

 

では、上にあげた三つの宗教と、それによく似た宗教を信仰する者にとって聞きたくないこと、拒絶したいことを書いていこう。

 

まず神について。

 

以前に書いたことを繰り返すことになるが、もし神が実在し、全知全能で完全な存在であるならば。

 

神は完全な存在であり、自己充足する存在である。

神は何かを必要とすることはない。

神は何かを必要とすることはないのだから要求することもない。

神は何かを要求することはないのだから命令もしない。

何かを必要とし、要求し、命令するもの、それは人間的・物質的存在である。

全知全能で完全な存在ならば、アブラハムをわざわざ試して、服従を確認する必要があるだろうか?

この神という存在の知識と能力は人間をはるかに凌駕するが、人間に対し支配欲をもつ人間的存在である。

決して宇宙の創造主である【巨大な意識】ではなく、それを詐称した人間的存在である。

 

次にアブラハムについて

 

彼は神を信じたから息子を犠牲にしようとしたのか?

彼は一族の集団を率いていた。

一族は神の保護・援助があってこそ、ここまで生き延びてくることができた。

ここで彼が神の機嫌を損ない、見放されることは絶対に避けなくてはならない。

下手をすれば、神が敵になり一族が滅ぼされる可能性もある。

息子の命と一族の命運を天秤にかけて、苦渋の決断をしたのだろう。

だから彼は、自分が迷う姿を神に見られるのを恐れ、翌朝には山に行ったのだ。

 

もしこれが、神が彼に命令したのではなく、彼の幻聴・幻覚・妄想であったならどうなっていただろうか?

おぞましいことになっていただろう。

21世紀の今でも、そのような悲劇は後を絶たない。

なぜ未だにそうなるのだろうか。

 

断言する。

信仰が原因である。

 

多くの人が、「信じることは良い」と思いこんでいる。

神は信じるもので、考えるものではないと思っている。

考えること、探究することさえ冒涜と思っている人もいる。

だが考えてみて欲しい。

考え、検証し、納得し、理解し、確信するのと。

思考も理性も投げ捨てて、訳も分からないものをただ信じるのでは、天と地ほどの開きがあることを。

二千年前に生きているのであれば、知識も乏しくそうするしかなかったろう。

しかし、今は全く違うのだ。

人間は二千年分知的になったのだから、ただ盲信するという悪癖は捨て去ることができるのだ。

現代に生きる人間は、人格神の信仰・救済というおとぎ話はサンタクロースとおなじことだと、もう理解できる年齢になっているのだ。

 

次回更新 ここまでのまとめとして