人生と”創造”の会発起人オリノです。

 

もし、人間が肉体だけの存在ならば、それはどういうことなのか?

ということを考えてきました。

結果として二つの答えにたどり着きました。

それは誰でも分かっていること、うっすらと気づいていることです。

 

1人間はすべてのものと一体である。

2人間は虚無である。

 

これまでに長々と駄文を連ねてきたのは、この二つを言いたかったからです。

特に2が大問題です。

通常私たちは家庭・学校・社会のなかで”望ましい人物像と人生観”を教わるか、自分で察する。

だが人間と人生の意味・目的・価値を教わることはない。

自我に目覚めた若者が、自分と人生の意味を知ろうとしても、見つけた答えが”虚無”では悲劇ではないか。

残念なことに彼らが常識的範囲の学問、医学・心理学に答えを求めても、発見できるのは

人間の肉体的・物質的側面に関する説明だけである。

本来ならこの問いに答えるべき哲学も、難解な用語を並べて敷居を高くしてはいるが、目新しい主張や大胆な仮説を耳にすることもない。

そんなことをしても、UFO目撃を公言した操縦士が地上勤務に降格させられるような待遇が待っているだけなのだから、その世界で地位を築いてきた人は、キャリアに傷がつくようなことはしないだろう。

そうなってしまうと必然的に自己探求は宗教系・スピリチュアル系の世界で行われることになる。

その際には慎重に進まなくてはならない。

常識的・学問的探究にはない危険も潜んでいるからだ。

そちらでは納得する答えは得られないが安全は確保されていた。

それに対し、こちらは答えが複数見つかる玉石混交の世界なのだ。

妄想やファンタジーが真実として通用してしまう世界なのだ。

人を欺き、儲けようとする不届き者もいる。

自分好みの答えを見つけても、それを鵜呑みにすると後で痛い目をみることになりかねない。

だからといって、疑い・否定のフィルターを通して見てしまうと、全てがガラクタに見え、あなたは手ぶらで帰ることになる。

世間一般の常識外の世界にこそ、時代を先取りした貴重な宝があることは間違いない。

だが人間の真実というダイアモンドは、とても良く似たガラス玉の山に埋もれているのだ。

オウム真理教事件を思い出してほしい。

事件に加担し、死刑囚となった若者たちは、もとから殺人を犯しかねない異常な人物だったのだろうか?

彼らは同年代の普通の若者より、真剣に自分と人生に向き合おうとしていたと思う。

しかし彼らは麻原の説く邪説を見抜けず、自分を明け渡してしまった。

ガラス玉をダイアモンドと見誤ったのだ。

その結果、あのような大惨事が引き起こされたのだ。

誰かに、何かに、神に、崇拝と屈服・服従を要求するようなものを、正しいと思っては絶対にいけない。

そのようなものに自分を委ねては絶対にいけない。

今のあなたには価値がないがOOすれば救われる、と言うものを絶対に信じてはいけない。

最初は分からなくても、そのような兆候が見られたら、絶対にそこから離れ、関係を絶たなければならない。

真実を見分けるのは、あなた自身に備わった理性と悟性である。

私の言うことも安易に信じてはいけない。

語られる内容を把握し、理性の光の下で観察・分析し、それが論理的整合性のあるものか否か、有益なものか有害なものか検討されなければならない。

 

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