人生と”創造”の会発起人オリノです。ちょっと長いです。
 
私とはこの肉体である。
それは自分が地球の小さな部分であることを意味する。
そしてそれは、ビッグバン後、変化し続ける宇宙の微細な一部分でもある。
宇宙の起源と肉体である私の起源は同じだが、直接の原因は母親の卵子と父親の精子が合一した瞬間にある。
この時に出来た受精卵が私の始まりだ。
 
その受精卵が成長し、胎児となり、誕生し、幼児期になるころには私の最も古い記憶が脳内に残された。
脳の成長につれて記憶は連続的に、より鮮明になり、さらには思い出される場面・状況の詳細、そうなった理由、その後の成り行き、その時の感情といったものまで一緒に記憶され、私の歴史となっている。
 
だが、その歴史にも終止符が打たれる時がやってくる。
その時はいつやってくるか分からない。
それを免除された、回避できた人間はいない。
善人であろうが悪党であろうが、博識であろうが無知であろうが、子供であろうが老人であろうが、有名でも無名でも、資産家でも無一文でも、勤勉でも怠惰でも、生まれたものは死ぬ定めである。
肉体である私も、あと50年も経てば消滅し、意味のない物質に戻っている。
私の記憶・人格・知性も消え去り、無になっているだろう。
宇宙が始まって以来、とんでもなく長い時間と変化の後に、ようやく得ることが出来た人生の時間は僅か100年足らず。
なんのために生まれてきたのかと思えるほど、一瞬で終わる人生も有りえた。
そう思えば、私は長い方かもしれない。
でも宇宙の始まりから終わりまでの永遠とも思える時間と比べれば、なんと儚いのか。
 
私は肉体である。
肉体こそが私である。
私は肉体だけの存在である。
 
よく考えてみれば50年前に私は存在していない。
50年後にも存在していない。
では今は本当に存在しているのか?
私が人生の短い時間の中で、何かを考えても、行為しても、消滅する。
素晴らしい人生でも、悲惨な人生でも、行き着く先は消滅だ。
もしかして私は勘違いしているのでは?
脳がよく出来すぎているせいで自分が在ると思わされているのでは?
そうだ、愛だ。
何よりも貴重なもののようにいわれているが、実はオキシトシンというホルモン物質が作り出す幻想だ。
人々が幸福を口にするのも、苦痛や面倒を避けて物質的豊かさと快楽を享受したいという欲望を満たしたいからなのだ。
少しくらい他人を踏みつけても、自分の幸福は勝ち取るべきだ。
正義もそうだ。
所属する民族、集団の思想・信条・教義によって何が正義かを刷り込まれ、それを疑いもしないで正義だと信じるからテロ・殺人・戦争・虐殺行為ができるのだ。
そしてその正義を一皮むけば、欲望や復讐が出てくるのだ。
つまり正義も幻想だ。
さらに殺人や犯罪行為を非難し否定する根拠もないことになる。
 
なぜなら人間は肉体だけの存在、肉体が機能している間だけ存在していると思っているものなのだから、この二文字がその実態を表すことができるだろう。
 
「虚無」 何も存せず、むなしいこと。価値のある本質的なものがないこと。
 
つまり人生に意味や目的は無いということだ。
 
私は人間という肉体であり、それだけの存在である。
条件が整ったので出現したが、すぐに消えてなくなる。
私は虚無なのである。
 
さて、これを読んだあなたはどう思います?
もしこんな人が目の前に現れたらどんな言葉をかけるだろうか。
これほど虚無病をこじらせてる人は滅多にお目にかかれないとおもいますが、軽い虚無症の人は結構いるはずです。(笑)
人間を肉体だけの存在として見ると虚無でしかないという考えを、これからひっくり返していくわけですが、それは昔から宗教・倫理・道徳の必要性として説明されてきました。
もちろん、それとは違った切り口でいきます。
 
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