映画『あのこは貴族』の個人的考察記録

 

 

 

劇場公開時に予告をYouTubeで見て気になってはいたものの、格差を痛いほど明確に描くだけの暗い映画なのかなぁと勝手に思い観る勇気が出なかったのですが、Netflixに追加され流れてきた予告の「お雛様チケット」というワードを繰り出す華子が俄然気になりすぎて遂に『あのこは貴族』を鑑賞しました。

 

三井家のお雛様展、、、聞いたことない、お嬢様や、、

冒頭のタクシーからの風景が三井系が開発しているコレドが写ってたりなんかして、

あそこらへんが生活圏の華子、ということで三井のお雛様展もめちゃくちゃリアルなんですよね。

 

 

ざっくり作品紹介

 

2020年11月公開。

山内マリコさん原作・岨手由貴子さん監督の映画『あのこは貴族』

門脇麦さん演じる東京のお金持ち「華子」と、水原希子さん演じる地方から慶應大学入学とともに上京した「美紀」が一人の男性幸一郎をきっかけに出会い、それぞれの人生を見つめるストーリー。

 

 

 

 

 

 「内部」進学生と「外部」進学生

 

私自身内部進学制度のある学校に通っていたので、内部生と外部性の描写にあぁ、わかる、、!と共感しました。

あの内部生が入学早々、食堂の外のテラスの椅子に固まってる感じとか!みたことある…!

ひと目見て内部生だとわかるあのいい育ちオーラ!

 

私は高校から一貫校へ入学したので、高校時代は「外部生」でしたし、大学に進学してからは「内部生」という両方の属性を経験したので、美紀の気持ちも、幸一郎の気持ちもめちゃくちゃ共感しました。

 

端からみたら新学期早々お金持ちの内部生が固まるのはいやぁな集団に見えても、内部生からしたら知っている友人仲間同士で固まってしまうのは自然なんですよね。

小学校や中学校のクラス替えの後、元々同じクラスだった人と謎に固まりませんでした?

特別仲良かったわけでもないのに、身を寄せ合って同じクラスというだけで仲良くなる。

あれと全く同じなんです。

ましてや大学のキャンパス内なんて新学期は本当に孤独ですからね。

 

映画でも美紀は大学中退後は同級生の里英としかつるんでいないのも、リアルだなぁと。

中退していない里英も、社会人になってからも会う大学時代の親友は美紀しかいなかったんじゃないかなぁと思います。

企業仲間に親友の彼女を誘っている点からしても。

大学という希薄で自由な枠組みの中で、卒業した後社会人になってもわざわざ会う友人を作るのってまぁ中々無理ゲーなんじゃないかと思います。

私は幼稚園時代の親友と大学で再会し、今でも会うのは内部生かその彼女くらいです。

彼女は外部生でありながら内部生とばかり仲良くしていたので、ほぼ内部生とも言えます。

内部だから外部だからと壁をお互い作っているわけではないのに、自然とそうなっていきました。

 

はたまた「外部生」だった高校時代は、

初対面の同級生同士では「内部?外部?」とまず聞かれてました。

聞いてどうすんだ!って話ですが、これが普通にめちゃくちゃ自然な会話なんですよね。

内部であれば「何組だったか」「誰と知り合いか」などの情報からその人を知れますし、

外部であれば「何受験で入ったか」「地元はどこか」などの会話を広げることにもなるので自然と言えば自然なのですが、、、

 

当時自然に使っていたら家で兄に「同じ学校の生徒なんだからみんな内部だろ…なんだよ外部って…」と気持ち悪がられ確かにそうだな、、と。

「内部外部」というワードってよく考えたらめちゃくちゃ差別的だなぁと当時初めて違和感を覚えました。

 

 

 

 女性同士を分断させたがる社会への違和感

 

二人が対峙するシーンは修羅場になるかと思ったのですが、淡々とお互いをリスペクトするんですよね。

特に仲介に入ったヴァイオリニストの友人が丁寧に説明してくれたので分かり易かったです。

韓ドラなどでは女性同士が髪を引っ張りあったり、水をかけたりするのがお決まりの展開なのですが、

確かに現実世界でそんなこと起きなくないですか?

 

実際私の友人が、彼氏の浮気に気付いてまだ関係が続いていた元カノへOB訪問を装ってアポを取り、直接対決しにいく、ということがありました。(フィクションではありません。彼女は華子でした。彼女はカップラーメンも食べたことがないお嬢様でした。)

ドラマ顔負けの修羅場を彼女自身も予想していたのですが、まさかの意気投合という結末に落ちついたそうです。

「敵」だと認識していたのに、実際顔を合わせて話し合ったら共感できてしまい、何なら最後は普通に面接対策まで練習に付き合ってもらったそうです。意味がわかりません。でもこれが実際のところなのと思いました。普通に理性もあるし、共感能力も、想像力も、普通にあるんですよね。

 

でも世の中は、「女の敵は女」という構造を作り出しがちです。バリキャリ(差別的表現でいうと『お局』とか)と専業主婦はがいがみ合っているだろうといったような。実際多少はあるとは思いますが、女性には敵が多すぎて「敵の敵は味方理論」で誰でも味方になっちゃうのも事実なんですよね。女の人はみんな、女の人の味方だなってあのシーンですごく心強く思いました。夜道、自転車に乗って騒ぐ女子高生のギャル二人と、全く属性の違う華子が手を振り合うシーンは、女性と女性はみんな仲間になれるということの強調にも感じました。

 

 

 

 性的描写がないことによる没入感

 

美紀が夜の世界にいたことや、華子の婚約後のベットから起き上がるシーンなど
性的な描写に繋がってもおかしくない場面はあったのですが、必要のない性的描写シーンは、不必要に描くことなく、すごく安心して見られました。
あぁいうのって監督の煩悩や権力が透けて見えて萎えてしまうんですよね、、
一気に作品を俯瞰で見てしまい、現実的な商業作品としてしか見れなくなるというか、、
やはり原作・監督が女性というところも大きいのかなと思いました。
今放映中のフジテレビ木10ドラマ『silent』も、性を匂わせるシーンがなくすごく自然で、視聴者がドラマをリアルに感じられるんですよね。その作品も脚本家が女性ということで、女性の脚本や監督に多い、不要な性表現の排除は個人的に「リアル」に感じやすいと感じています。
 

 

 

 何故華子は幸一郎と離婚したのか

 

映画では幸一郎との離婚が唐突に思えたのですが、原作の小説では家事が苦手は華子と一切頼れない幸一郎が話し合いもできていないという設定だったようです。確かに映画でも幸一郎が華子を一人の女性としてリスペクトし、世界で一番愛している!という風には見えなかったですし、いずれ政治家になるであろう自分の社会的体裁の為、静かに問題を起こさず付き合ってくれる政治家の嫁にふさわしく、華子がとっても都合がいいからという風には見えましたね。イケメン設定ですし、難しい家族内政治のこともあって嫁は育ちの合うこういう人で、セックス相手は外で作るくらいに幸一郎ははじめから割り切ってそうでしたね。幸一郎も罪な男ですが、初めから自分の結婚をそう割り切れるのも覚悟が決まっていて潔く、かわいそうにも思えますよね。ここら辺の細かい表現は小説を読まないとわからなさそうなので、小説を読んでみたくなりました。
 

 

最後に

最後は二人とも、というか描かれている名前のある若い女性は皆、仕事をしているのが印象的でした。現代は共働きが主流と言われていますが、お金に困っていなければ専業主婦という選択肢も立派なものとして描いて欲しいなという思いがありつつも、やっぱり仕事をして一人で自分の足で立つという選択は清々しいものがありました。引かれたレールの中で、自我を失っていた華子が自身の選択で人生を歩く中、引かれたレールの中で選挙活動をする幸一郎が最後に目を合わせるシーンは人によって受け取り方は違うと思います。私は幸一郎の手元からいなくなると未練がましくまた欲しくなってしまう性格が最後の視線から垣間が見れた気がしますし、華子も嫌いになったわけではないのかなとも思います。ただ、初めから自分の選択でレールを外れて生きても、視界が広くなるだけで、今の見えない階級制度のある社会ではどちらにしろこの二人はここで出会ったように、出会ったんじゃないかなという気もしました。思っている程怖がらずに、周りを気にせずレールを外れて自分の人生を生きる。その方が同じ結果に辿り付いてもずっと幸せなんじゃないかと思います。何より最後はみんな何かに「チャレンジ」する姿がカッコよかったです。前向きな気持ちと挑戦を忘れずに人生を生きて行きたいなと思いました。

 

 


今回の初めてのブログは、映画『あの子は貴族』の感想でした。
最後までご覧いただきありがとうございます。
よろしければ気軽に感想やコメント残していただければ嬉しいです。
ではまた。

 

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