始まりは、
望みを書き出すノート。
ちょうど1週間前。
自粛中用に新しいノートを用意して、
そこに自分の望みを書き出すことにした。
自粛が終わるまでに、ノートいっぱいに
やりたいこと、なりたい自分、
たくさんの理想や願いを書こうと決めた。
「希望」にフォーカスしたかったから。
でも書き出すうちに、
もっと重要な気づきがあった。
やっぱり、どこまでいっても
人間望むのは、
心の自由である
ということ。
それに気づいてから私は
ひたすら、心を自由にすることを
意識して、この1週間を過ごしてきた。
まだ弱く震える自分も
心の奥にいるけれど、
敢えて書く。
始めは、不足感と向き合うことだった。
私に足りないものなどない。
“足りない才能”
“足りない経験”
“足りない視点”
“足りない努力”
“足りない魅力”
何一つない。
今の私にあるものこそ、
今の私に必要な全てである。
ふと不安がよぎる度に
SNSを見て、自分の価値を疑う度に、
ひたすら向き合った。
私は、何が「ない」と思い込んでる?
何が「ないと困る」と思っている?
それを炙り出しては、
その部分にフォーカスしながら
上に書いた言葉を何度も唱えた。
次は、
他人の思考、感情、行動
全存在に最大限の自由を与えた。
あの人にはあれがないから
あの人にはあれがあるから
それに比べて私は大丈夫
だから私は大丈夫
そんな不安定な状況で生まれる
自分への承認が何になる?
誰が何をどう考えて
どう行動したって
誰にどんな自由が許されていたって
私は大丈夫。
誰かの自由が
私を、私の未来を、
傷つけたり踏みにじったり
不利な状況にすることはできない。
誰がどんな自由を行使しようと
私の心は豊かで、幸せである。
その確信こそ、私は得たいものだった。
だから、条件を見つける度に、
不安になる度に向き合い続けた。
全存在に自由を与える宣言と、
その上で自分の幸せも豊かさも
靡くことなく確立する宣言を出した。
これをやってみて、不思議だったこと。
他人に自由を与えていくほど
自分が自由になる。
自由を与える、って
もちろん頭の中での話だよ。
自分の想定や自分が考える「最善」から
仮に相手が逸れる行動や在り方をしていても
相手の意思を尊重し、自由を与えるということ。
誰もが、自分が信じる信念の中で
思考し、感情が湧き、行動する。
その営みそのものを、認めるということ。
そうするとね、
自分の幸せが、自分の心の温かさが、
より色濃くなっていったんだ。
どう生きたいか、は
結局、
自分は何を信じたいか
だと私は思う。
生きることと、
この世界への設定
これまでに作られた思考形態
その中で人は考えて、感じて、
行動するのだから。
自分らしく生きたい、と思うなら
自分は何を信じたいか?を
明確にし続けること。
例え、自分が信じたい考えとは
違う考えを周りの人に言われても、
自分の内にある弱さが悪魔の囁きへと姿を変えても、
それらにすら、自由を与えよう。
全存在には、
思考、感情、行動の自由がある。
何を考え、どう感じ、
そこからどう動くかの自由があるから。
頭の中で、自由を与える。
あなたはそう信じたいんだね
そう生きたいんだね
そう感じたんだね
でも、それは
「あなたは」の話。
こうやって「他」と
きちんと線引きできたら、
次は、ちゃんと自分に聞く。
自分は何を信じたい?
自分はどう生きたい?
もちろん、私にも自由があるよ。
だって、全存在には
思考と感情と行動と
全ての自由があるのだから。
「私」だって、例外じゃない。
頭に浮かんだ「考え」や「理想」が
他の人のものなのか
自分のものなのか。
これを判断する力は、
自分が1番自分を好きになる生き方を
選ぶ背中を押してくれる。
たくさん聞いた。
たくさん確認した。
その結果、私はやっぱり
信じることにしたんだ。
人生は、誰にとっても最高傑作。
ということを。
その中で登場する
どんな出来事も、どんな存在も、
その物語を紡ぎながら鑑賞する本人にとって
不利には働かない。
「面白い」
その展開にしか、必ず向かわないと。
最高傑作を最高傑作と言わしめる
巧妙な伏線と謎が溶ける高揚感にしか
なり得ないと、私は信じる。
「人生」に登場する全てが、
「敵役」にはなれても、
本物の「敵」にはなれない。
今、世界を揺るがすウイルスだって「敵役」であって、「敵」ではない。
1人1人の人生という「ピース」と
それらが合わさってできる
「みんなで創る物語」に登場した
一つの仕掛けであると、私は、信じてる。
そう信じた生き方をしていく。
ひめか.
