求めている安心感
ほっとする感覚
満たされた気持ち
根拠がなくたって溢れる
私は大丈夫
という強さ
これらは全て、
自分が信じたい真実を
心から信じた時に湧き上がる。
「やりたいこと」やその意味、
それ以外にも、何かを考える時は
自分が信じたい真実を足場にすること。
「やりたいこと」とか
何か考え事をしているうちに
不安になってしまった時は、
必ず足場を確認しよう。
私は何を信じたかったんだっけ?
私にとっての「真実」は何だっけ?
何度も自分に問いかけよう。
不安や揺るぎは、いつだって
足元から来ている。
◇
さっきね、
「自分が信じたい世界」
を言葉にして再確認していたの。
あ、ちなみに私は
「信じている世界」
という言葉より、
「信じたい世界」
の方がしっくり来る。
自分の状態によっては
今の自分が「信じている」ものは
自分の「信じたい」ものと離れている時が
あるからね。
いつだって基準は
「信じたい」方で。
でね、その「信じたい」真実を元に
私は、自分にとっての
発信の意味
を考えていたの。
そしたら途端に、
不安とか萎縮する感覚が
押し寄せてきた。
理由は、
そうじゃない世界で
生きている人もいるから…
だった。
私がここで自分なりの答えを出しても
「客観的正しさ」はないんじゃない?
(ということは、伝わらないんじゃない?意味ないんじゃない?)
と思えてきたの。
ここでストップ✋
我に帰る。
客観的正しさって、何?
“誰から見ても正解”
“誰が見てもうなずける答え”
そんなの、ないよね?
↑またまたこの記事のリブログだけど
人は、誰にでも
考え、感じ、行動する
自由がある。
「客観的事実」
という概念自体が、
人々の思考の自由を
奪ってはいないかい?
と、するならば。
気づいた今から、
まずは脳内の全ての人に。
私が気にしてしまう「人の目」の「人」たちに。
思考の自由
感情の自由
行動の自由
を与える。
そしてその次よ。
足場を確認する。
これ、大事。
私が信じたい真実は何だっけ?
ここに戻って初めて、
この足場が固まって初めて、
自分に問い直す
今の私にとって「発信」って何だろう?
心の声によると、その答えは
世界が紡ぐ物語の展開を担う
メッセンジャーとなること
だったよ。
◇
「人の目」を気にしなくなるってさ、
どう見られるかも分からない
イタさを纏うこと
っていう部分もあるよね。
それは私、少しずつだけど平気になってきた。
でも次に不安になったのは、
「人の目」を気にしなくなることで
周りに気をつかえなくなること
周りに愛情を注げなくなること
だった。
私の中では、これが妙に繋がってた。
だけどさ、よくよく考えたら
■「人の目」を気にしない
■自分さえよければいい
って、ちょっと別の話だよね。
逆に、「人の目」を
気にしてたエネルギーをさ
自分が大事にしたい考え、人、物に
注げた方が
結果的に、自分の周りを豊かにし、愛で満たす
ことに繋がるのでは?
と私は思った。
「自分」に思う存分意識を向けた方が、
周りに対しても、純粋な優しさや愛情を
注ぐことができる。
だからこそ、私もそうするんだ。
これが私の信じたい真実で
私の「足場」です。
誰かにとっては「誤り」で
誰かにとっても「真実」で
誰かにとっては「どうでもいい概念」。
大事なのは、
「自分にとっての」
真実である、ということだよ。
忘れずにね。
成し遂げたいことがあるならば、
足場の上に行動を積み重ねよう。
足場と行動の一貫性を忘れずに。
ひめか.