災害時の対応分析は何のためか。当然、次回に備えるためだ。
今回のようにダムの放流が相次いで川が氾濫した場合、その責任を個人に求めることは酷だ。その結果、国や県をがという話になるが、結局そういう話をすると長引くばかりで進まない。
本日2018年7月25日の天声人語は、中途半端である。いつも中途半端な高みの見物のようなコメントばかりだが、今日も同様だ。「次に備えるためにも」という”にも”が気になってしまう、揚げ足取りな私である。”にも”ではなくて、第一の目的が次回に備えるためだ。損害賠償とかそういう話ははっきり言ってもうどうにもならん。自然災害すべての場合に対応などできん。明らかなミスや怠慢があったとしたら論外だが、ふつうにまじめにやったことに対してどうしようもない。
だから、経験を残すために分析を行うのだ。これを明確にしないと、担当者が本当のことを言えなくなってしまいかねない。
そういうところが、日本は苦手だなぁと思う。どうしても個人が責任を意識してしまう。米国とかはもともと個人の責任を感じない人種なので、何しろ猫を電子レンジに入れて賠償が成立する国だからね、なので平気である。あれが悪いこれが悪いと言ってシステムややり方の問題を改善していく。すごい人種である。普段は迷惑この上ない性格が、こと改善することにかけてはすごい能力を発揮する。
ちなみに、日本のかいぜん活動は、評価は高いいのだが、まじめすぎて何かしなければと追われている気がする。このあたりが、ちまちましたかいぜんが得意な日本とドラスティックな変革が生じやすい米国の違いなのかもしれない。