東日本大震災のその後の記事を見ていると、当事者でない極端な考えが浮かんでくる。
ちょっとした住所の違いで補償金を手にする人としない人で対立があったり、帰ることを待ち続けやっと帰れる人、今も待ち続けている人たちがいたり、仮設住宅で高齢者の支援をするための新たな高齢者による組織を作ったり。今も離れられない人たちがいる。除染は進まない。だって現実的でないから。
とっとと、あの土地は放棄することをお勧めしたい。だって、全てが元に戻るなんて考えられない。壊れた人間関係とか、住人の全てが元通りになることはありえない。そうすれば、そこに堤防も要らないし。
国は移住のための援助を促進するべきだ。就職とか。カウンセリングとか。
小学校を訴える人たちもいる。いつも亡くなった子どものために真実を知りたいという。亡くなった人はそんなことは言わない。言うのは生きているものが言うだけ。生きている人間が気がすまないのに、なぜ亡くなった人間のためにというのか理解できない。一部の人は、震災に触れたくないのだろうか、訴訟に参加しないようだ。自分の気がすまないという理由で訴訟を起こすことは否定しない。、亡くなったもののためにという名目が大嫌い。たぶん、このような理由で訴訟する人は、満足することがない。判断基準が自分でないから、いつまでも納得しない。
それに結果は見えている。それほど緊迫したものと思っていなかったのだと思う。真実とやらをを知ってどうするのだろうか。何を期待しているのだろうか?
当事者でない極端な考えでした。