人生クラブ
不動産金融業界を走り回る人々を描く。事実をもとにしたエッセイ。
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はやおき

公開が視野に入ると、四半期ごとに数字を作っていかなくてはならない。

今月はファーストクォーターの山場。

なので朝早く目が覚めてしまう。

それから考え続ける。

不動産に対してかなりネガティブなことが連発している

去年の構造偽造から。

モルガン信託、新生信託の業務停止命令。

ダイナシティー社長逮捕。

菱和ライフ社長の逮捕。

アーバンコーポレーションの決算延期。

など、不動産業界にネガティブな事件が頻発している。

一部バブル化しているマーケットに対しての、金融庁の意図を感じるが。


不動産関連の銘柄もかなり株価が落ちている。

しかし、よくよく考えてみると。

一連の事件は、業界全体の体質ということではなく、かなり固有性が高い。

信託ぐらいか、業界全体に影響及ぼすのは。

それ以外は、確かに、そりゃだめだよってものばかりだ。

菱和なんか、物件がらみで人が死んでいるからね。

もともと怖い人系の金で伸びてきた会社だから。よく上場してるなという会社だ。


こういった膿が一通り出てしまったほうが良いのだろう。


しかし、上記ディベロッパーはもともといろんなうわさがあった会社ばかりだ。


ようやくメスが入ったのかという感じでもある。


視力をあるひ失って、何ができるか。

えげれすごを学ぼうと思い立った。

そして、音楽制作を再開した。


視覚に頼りすぎている仕事の仕方を、別の感覚でも稼げるようにシフトしていこうと考えているからだ。

失明する可能性が0なのではないからね。

去年100億かせいだら、今年は100億1円でもいいから稼ぎたい

すでに数十億の資産を持っている人物と飯を食った。

それでも彼は事業会社を経営している。

そしてもうすぐその会社をIPOさせるところまで来ている。

なぜ、金がしこたまあるのに、それでもまだ働くのか。

そして、上場企業という、もっとも面倒くさい会社を運営したいと思うのか。


簡単なことだ。


楽しいからだ。


バッターボックスに入る前に、真剣なまなざしで、相手のピッチャーが前のバッターに対して投げる玉をみて、タイミングを合わせて。

ようやく自分の打順に回ってきて、そして、バッターボックスに入る。

サー打つぞ!と気合を入れているバッターに向かって。


「なんで、打ちたいの?」


こんな質問はおろかだ。


打ちたいからだ。打っていい成績を残したいからだ。

そしてそれが楽しいからだ。


お金を稼ぐことに目的なんかはない。

あるレベルを超えると、お金自体がもっている意味合いが変わってくるのだろう。

それは、孤高の存在になっていく、大経営者達の過去の自分との競争なのだろう。

結婚の嵐

今年、友人が立て続けに結婚する。

5組かな。

めでたいことだ。

ある大経営者が言った。

結婚をはやくすべきだと。

結婚をし社会的責任を高め、そのうえで仕事をする。

いつだって捨てるモノがなくて、逃げられるやつは信用ならない。


彼はこうもいった。

稼ぐのなんて簡単だ。

一人、あるいは少人数で効率的に稼ぐ。

それが金儲けの本来あるべき姿だと。

しかし、かれは、一部上場企業という大会社を経営する。

昔は売り上げが100億だった。

しかし今は、人件費で100億かかっている。

人を雇用し、人の人生に関わり、少なからず責任を持ち、そして、会社を運営していく。


身軽なことは楽だが、楽なことだけが楽しいわけではない。





兎に角そばを食べている

北海道に行ってきた。

心の旅だ。

10年前に死んだ母の遺骨を散骨してきた。

川に流したのだが。

これって、法律的にはOKだったっけ?あまり記憶にない。

言い方を変えれば死体遺棄罪にあたいしないのだろうか。

何はともあれ、ずいぶんと時間がたったが、母はこれで成仏しただろう。

成仏というと仏教だから、成仏ではないか。

宗教嫌いの母親だったから。

すでにとっくに死んでいたわけだし。


それはともかく、毎日そばを食べていた。

蕎麦屋で飲むのは、格別だ。

小樽の藪半というそばやに行ってきた。


実は、六本木のおかまバーで働いている、女性になりたい男性が、藪半の一人息子だったりする。

そばはうまかった。

彼がはれて彼女になり、藪半をついでくれることを切に願う。


自分自身と戦う。その滑稽さ。

俺の母親は左翼だった。弱者の人権を主張し、資本主義を否定し、平等をうたった。

もっといえば、俺の母方の祖父は、プロレタリアの絵描きだった。

それこそ小林多喜二や幸田露伴らとともに、創作活動を展開し、戦時中は投獄されたりもした。

国家が強烈に一方向に進んでいるさなかでは、彼らの小さくても力強い声は、それなりに意味があった。


しかし。


それから70年。


国家としての明確な枠組みがなく、或いは明確な外敵があるわけでもなく、求心性があるわけでもない現在の日本において、その思想はいかなる意味を持つのか。

平等の名のもとに、弱者であることを隠れ蓑に、権利ばかりを主張して義務を果たさない輩どもが、大通りを跋扈している。学校では子供が教師を脅す。地域社会では建物が建つとなると、地域にまったく関心も持ってない輩どもがうじゃうじゃと集まってきて、結局は、金銭を期待する。

社会主義、共産主義は、すでに無効化している。


日本の市場にはリスクマネーが乏しい。

ほとんどの会社は、間接金融にて資金を調達する。

それではその金の源泉は何なのか。

それは庶民、弱者が金融機関を信じて預けている金だ。


労働者が資本家に利益を搾取されたと主張し、労働問題を起こす。労働争議を申し立てる。

では彼ら労働者は誰と戦っているのか。

経営者は資本家なのか。

そんなことはない。

金持ちが貧乏人という弱者から利益を吸い上げる。

そんな構造はもはや成立していない。

むしろ金持ちが納める税金によって多くの貧乏人が生きているのだ。

弱者が搾取しているのだ。

そして金持ちから搾取した金を銀行に預ける。

そしてその金が企業活動の原資になっているのだ。


それはどういうことか。


労働者は自分自身と戦い、自分自身を訴えているのだ。

その滑稽さ。


俺も経営者である。

でもまったくもって資本家なんかではない。

ある女がある会社在籍中に病気になり、それを理由に会社に高額の保障を求めている。彼女は涙ながらに経営者たちにに責任を訴えかける。義務を果たす前に、権利しか主張しない。

そういう輩だ。

しかし、経営者達を通したその向こうにいるのは、彼女自身に他ならない。



国家という単位

国家意識を感じる機会が激減して久しい。少なくとも戦争という外交手段をとることを完全に放棄している日本が、国家として一致団結して、なんらかの外的と対峙することはない。

しかし先日行われたWBCにおいては、少なくともとんでもなく異常なやつら以外は、国という単位を感じ、日本人という民族を感じ、そしてそれを誇りに思う再確認ができたのではないかと思う。

鈴木一郎という日本人代表アノニマスな名前をもつ男は、確実に後世まで語り継がれ、伝記になり、数十年、数百年後の子供たちに国家という単位を感じるきっかけを与えるだろう。


日本人万歳。

過去に決別する

母親が死んで、10年がたつ。

極左だった母親は、宗教を忌み嫌い、墓に埋められることを徹底して嫌がって死んでいった。

とにかく、焼いて、骨を粉々にしたものの、骨壷にそのほとんどがはいったまま、いまだに実家の棚の上に放置されている。

十年間もだ。

一部は母親の希望であった、河への散骨を実現したが、それほど大量に流すこともできず。

そして時がたち、なんとなくみんなの中の意識の片隅に追いやられ、そして十年の月日が流れた。


母親と過ごした思いが残る実家で住み続けている父親は、女房がいない日常と、物言わず棚の上で粉となっている女房の死という非日常の間をゆらゆらと行き来して、何かを引きずったまま一度として積極的な発想をもてないまま生きてきた。

十年間もだ。


死後の世界がどうなっているだとか、宗教が死んだものになんらかの導きを用意しているだとか、経験をしたこともないことを語ろうと思う気はまったくないし、右でも左でもないが、かといって宗教を全面的に信頼しているわけでもないが。

宗教という人の心を支える仕組みが有史以来数千年、いやそれ以上の期間、人々の心を支えてきたことにはそれなりの意味があるのだ。


それは残されたものの決別なのだ。


死はもっとも当たり前のことで、すべての人が経験することであるが、一方で、すべての人が一度しか経験しないことなのだ。したがって、近しい人の死は、圧倒的に非日常的イヴェントとして、鮮明に残されたもの記憶に残る。

しかし、記憶はしだいにあいまいになり、忘れられ、そして残された者は忘れたことに傷ついたり、或いは突然妙な形で思い出して、傷ついたりする。


そういう俺も、何か、この十年間ずるずると引きずってきたものがあるように思う。

いいこととか悪いこととかそういうことではない。

過去の後悔とその言い訳を引きずってきたように思う。

それがずるずると引きずってきたものだから、いつの間にかみょうちくりんな化け物みたいに形を変えて、ときとして俺の肩に、細長い影のようにぶら下がっているのだ。

そして俺は悪いことがあるとついそのことのせいにしたりする。


この憑き物を落とさなければ。

俺は俺の言い訳という化け物を本質的に超えることができない。

年貢をより多く払えることが、存在価値だ。

我々が負っている、プレッシャーなんて比べものにならない。

年貢が納められなければ、懲罰をうけたり、それこそ、処刑されたりしていたわけだ。

国力をしめす指標は、どれだけの年貢を徴収できたかによった。

だから必死で徴収するわけだ。

連帯責任制度みたいなものも施行され、5人のうち一人でもハードルを越えられなければ、5人ともが懲罰の対象になった。

当時やつらが負わされていたプレッシャーに比べれば、金儲けをして税金をおさめることなど、鼻くそほどにもならない。

命を賭して、国家に使えていたのだ。かつての日本人は。


封建国家としての、基本的仕組みは、江戸時代のころのそれと、本質的には変わっていない。

国家というものが、人々の最低限の営みのためのインフラをつくっているのだ。

それをつい忘れがちになる。

水道をひねって、水が出るにいたるまでには、あらゆる国家的取り組みがあったのだ。

いつの世も、人民は国家制度に対して、無責任な文句しかいわない。

増税に反対するやつらのほとんどは、それほど大した税金なんか納めてないやつらばかりだ。

あらゆる大金持ちや、大企業が納めている、膨大な税金によってそいつらの家の蛇口をひねると水がでてくるのだということを、完全に忘れているのである。


年貢をより多く払えることが、存在価値だ。


毎年会社と個人とあわせて30億超の税金を納めている男がそういった。

彼の生きる価値は、いかに税金を納められるかにある。

5兆円の税金を払うことをその男はめざす。億万長者になることをめざしているのではない。

いかに税金を納められるかを目的として生きているのだ。