【日本の社会変化と民衆】① 第一章第四節 三国の民衆生活と文化 | 目指せ!2025年中検準1級合格

目指せ!2025年中検準1級合格

合格までの道のりをシェアするブログ♪
合格するまでの進捗、心の状況をアップして
2025年中には合格します

そのほかは「読者」という雑誌の翻訳をアップします。

2004年に出版された

日本、中国、韓国、三カ国の学者と教師が

共されはじめた。

EAST AS蜂起

 

 

 

 

 第四節 三国の民衆生活と文化 

 

3.日本の社会変化と民衆

 

西洋文化の流入によって、人々の生活はどのように変化したのであろうか。

また日本政府の政策はどのような関連があったのか。

 

■時間観念の変化

1872年、新政府は月の動きをもとにした基礎的暦法(太陰暦)の使用を停止し、西洋各国同様に

太陽の動きをもとにした太陽暦を実行していくことを宣布した。

そして一日は24時間、一週間は7日、と確定し、これによって時間を全国共通とした。そこで

人びとの生活は暦法と時間の分配によって大きな変化が起こった。

これ以前は、一般民衆の一年中の重大な祝日は(例3月3日、5月5日、7月7日など)すべて中国から

入ってきたものだった。政府は天皇と皇室の活動を中心とし、新しい祝日は民衆が必要とした祭日を

新たに設定した。例えば、神武天皇の即位日(神話伝説内の第一天皇)、天皇誕生日など。

しかし、旧暦及び旧暦をもとにした各種の祭日活動は農業生産及び習慣と密接に関わっており、

とある地域では依然として長い時間旧暦が用いられた。

 

■鉄道と人の移動

1872年、首都東京の新橋と横浜港を結ぶ鉄道が開通し、これが日本で最初の鉄道として

もともと歩行では10時間ほど掛かっていたところを53分に短縮した。

人びとはその速さと便利さに驚き、次々とこの鉄道を利用するようになった。

このあと、資金不足により鉄道建設が一度速度が下がった。

しかし政治と軍事上で鉄道の重要性が一致し、1880年以降、各地で鉄道の敷設が始まった。

そして、鉄道は新しい交通手段として、陸路運輸の主力となり、距離が離れている国内各地を連結し、

産業と生活の空間は大きく展開した。

鉄道の建設網は軍事運輸が巨大な作用をもたらした。甲午戦争と日露戦争時は、日本各地の軍隊が

すぐに鉄道運送を軍港の広島まで使用し、どこからでも戦地に送り届けた。

 

新聞時代

17世紀初め、重大事件が発生し、ニュースを広めるために、言葉と絵を載せたチラシを印刷し、

それを販売した。この方法は「瓦版」と呼ばれた。開港後、横浜に住んでいた外国人は定期的に

情報発信するため外国語新聞を発行した。

間もなく、日本人も定期的な近代新聞の発行を始めた。1871年、日本最初の日本語新聞が創刊された。

このあと、新しい新聞は次々と創刊され、各地で各種の新聞が発行され、新聞を通して定期的に

情報が読者に届けられる時代が始まった。新聞が発行された影響で、字が読める人が増え、人々は

新しい情報を入手したいと思うようになった。

最初、新聞は政府の資金援助を得ていたが、間もなく新聞は政府の言論を批判することが増え、

どんどん自由民権運動に傾いた。そのため、政府は新聞を管理する法律を定め、多くの記者を逮捕し、

一部の新聞の発行を禁止した。

政治において、言論の中心は新聞で、主要の読者は旧武士と知識分子だった。小説、事件、伝聞など

も載せ、一般庶民の娯楽要求に迎合した。

≪読売新聞≫(1874年創刊)、≪朝日新聞≫(1879年創刊)はこのような人に向けて発行した新聞である。

1880年、発行量第一は≪読売新聞≫で2万部程度だった。

このあと、新聞は少しずつ報道中心となった。特に、甲午戦争、日露戦争時は新聞報道は威力を発揮した。

新聞は多くの人々にとって、知識と情報の源となり、人々の意識と問題認識の方法に影響を与えた。