2004年に出版された
日本、中国、韓国、三カ国の学者と教師が
共同で書いた
EAST AS蜂起
第三節 三国の改革運動
1.日本 自由民権運動
日本新政府は近代化を実現するための改革を実行していた。
しかし、政治の実権を握っているのは一部の政治家であった。
この状況で日本国民はどのような行動を採用したのか。そのとき日本はアジアとどのような関係だったのか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ー各位に申し上げる
貴方方は切り札を持っている。この切り札とは何か。お金と同様の木材か?それとも金、銀、宝石か?違う。すべて違う。それらよりもさらに貴重な切り札である。それは自由という権利だ。
民権を主張しなければ、自由も勝ち取ろうとしなければ、幸福も安定も手に入らないのである。
ー≪民権自由論≫
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
*原本ではこの部分が左にあるが、ブログでは上にしか書くことができないので上に書くこととする。
民権と自由ー政治を国民に引き渡す
上記の文章は植木枝盛が1879年に書いた『民権自由論』の冒頭部分である。
彼は自主的な自由と憲法によって国家の繁栄と安全があるとして、国家政治に参加する重要性と憲法の重要性をアピールした。
彼はこのような呼びかけをする際、国内では国会の召集を求める世論が日増しに高まった。
各地の代表は署名簿と意見書を携えて東京に集まり、政府に国会の召集を求めた。各地でも各種講演会が召集され、多くの刊行物も厳しく政府を批判した。
各地で制定された憲法草案の運動は十分に活発だった。民衆は繰り返し学び、討論し、法案を下書きし、制定した憲法案は70余り。その中の一部が植木枝盛が書いたものである。
国民の権利に関し、彼はこのように書いた。
・・・・・
日本国民には思想の自由がある。
日本国民には自由集会の権利がある。
日本国民は憲法破壊に対して抵抗することができる。
政府が憲法に背き人民の自由を侵した際には日本国民はそれを翻し、新政府を建立することができる。
ー植木枝盛草案≪日本国国憲案≫
・・・・・
上述の理念は『国家は自己の権利と自由、自己の幸福建立の保護のためにある』という基礎の上に成り立っている。
自由民権運動が十分高調したため、1881年、政府は10年後に国会を召集せざるを得なくなった。しかし憲法を定めるためには政府を制定する必要があり、同時に運動を制限することを強化した。運動に関与した人々の組織政党と政府は対抗したが、その力は次第に衰えた。
自由民権運動が陥ったジレンマと疎外
自由民権運動は日本が自由と人権国家として建設する運動であった。しかし、日本国内の改革運動は
次第に停滞し、ジレンマに陥った。そこで彼らは国外に目を向け、日本は国外に勢力を拡大すると主張した。1884年朝鮮で甲申政変が起こり、民権運動の刊行物が強烈に中国を叱責し、中国と徹底的に交戦するという強硬論を提出した。
1885年、一部の自由民権の運動家が武器を携帯して朝鮮に出向き、これを契機に日本と清を対立させ、
この対立を利用し、日本国内で革命を実現させた。しかし、この計画は事前に暴かれた。これが大阪事件である。
≪大日本帝国憲法≫の制定
政府は国民に知らせず秘密裏に憲法を制定した。1889年、天皇は憲法を承認したー≪大日本帝国憲法≫を発布した。これは君主権力のプロイセン憲法などを手本に制定したもので、植木が草案した憲法とは完全に異なるものだった。この憲法は天皇が政治、軍事の最高権力者と規定し、承認されたのは国民の部分は自由と権利のみだった。そこで天皇を主とする政府は体制上、強化され、日本はついに一歩一歩アジア拡大の一途を辿った。