則天武后のザクロスカート 1  | 中国語エッセイの本棚

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唐の永徽元年(650年)5月26日、長安。 

唐の李治皇帝は、亡き父・李世民に線香をあげるため、

宮殿からほど近い感業寺にやってきた。

 

その日は李世民の一周忌であった。 

線香をあげるという用が済むと

彼はもうひとつ個人的な用事を済ませた。 

彼はある女性に会いに行った。 

 

その女性は彼の姿を見て雨のように涙を流し

詩を披露した:

 

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あなたのことを考えすぎて魂が抜けてしまい

恍惚の中では赤は緑に見え、体は憔悴し、心奪われぼんやりとして

しまっているのです。

あなたを思うあまり、涙を流し、信じないのであれば

衣装箱を開けてその赤いスカートについた涙のあとを見てください。

 

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この詩は『如意娘』と呼ばれる。

唐の李世皇帝の妾であり、後に唐の李治の第一夫人であった。

 彼女は以前は武约(ぶよう)と呼ばれ、次に武媚(ぶめい)と呼ばれ、

次に武周(ぶくじゅう)と呼ばれ、唐の歴史では武則天(ぶぜてん)

と呼ばれていた。

 

この詩は彼女の運命を変えた。

 

1年前、李世民が亡くなった。

則天武后は李世民の生前の妾となり、同時に李治の母

(嫡出の子が父のめかけをいう場合の母)の一人となり

唐朝王室の制度に基づき、感業寺に出家させられた。

 

低俗凡庸な則天武后が思いを寄せた人はだれか。

それがこの詩に書かれている人で、ここから読み取れるのは

息子、唐の高宗李治である。

 

詩はとても良いし良い詩だが、もし本当に箱を開けて

ザクロのスカートを出してみる必要があったのか。

そのスカートの涙の跡が1年もの間乾かないであろうか。

 

ここからわかるのは

則天武后はこの最後の一言に本当の意味を込めて。

それは李治に対し、彼女がザクロのスカートを身に着けた

過去の美しい日のことを思い起こさせるためだった。

 

詩を献上した後、則天武后と李治の情が再燃した。

 

則天武后は感業寺を離れ、再度宮殿に入り

昭儀(前漢以降の後宮における皇帝の側室の称号)が皇后になったのち

天後(則天武后が唐の構想ののちにあった時代に用いた称号)になり

天後ののちに大周皇帝になり、中国歴史上一番最初の女皇帝となった。

 

李治の心をつかんだのは、この詩以外にこのザクロのスカートも

心をつかんだ。

 

スカートというのはもともと短い上着とされていて

最初は女性専属のものではなく、男女問わず着られる服だった。

 

現代の意義がスカートについたのは

漢代であった。

 

女性が着るスカートは、上に短い上着などを組み合わせるのが一般的で

漢代以降、少しずつ流行になった。

唐朝になり、スカートは女性の服装のアイコンのひとつになった。

 

唐の時代の女性のスカートは長い。

その長さは前代のスカートに比べ、長いのは明らかで

スカートの裾を引きずるのは当時は一般的であった。

 

身長の美しさを表現するために

女性はスカートをはいた時に腰の位置を高めにして

スカートは脇下から始まり裾は足を覆っていて

あるときは地面さえも覆っていた。

 

つづく

 

武则天的石榴裙