第2章第3節
■コラム5 陳鉄軍 処刑場での結婚
陳鉄軍は元の名を陳謝君といい、広東佛山人で、1925年広東大学(のちの中山大学)に入学した。
彼女は華僑の裕福な実業家の娘であったが、贅沢な生活を好まず、1926年中国共産党に入党後、
婦女解放運動に参加し、広東婦女開放協会副主席となった。
彼女は常に粗い布地の服を着ていて、女性労働者、農民女性の家に行き、彼女たちの家事の手伝いをしながら
彼女たちに男女平等、婦女は自ら強くなるべきであることをを説き、労働女性の深い支持を得た。
1927年、国民党共産党の両党が分裂後、国民党政府は共産党員を捕まえて、殺害し始めた。彼女と広州蜂起を率いた
周文雍は夫婦のふりをして生命の危険を冒しながら仕事を続け、二人の間にこの時に愛情が芽生えた。1928年2月
彼女と周文雍は反政府に捉えられた。獄中で彼女は数々のひどい拷問を受けたが、始終屈服することはなかった。
彼女は周文雍と共に処刑場で銃殺される際、周文雍との結婚を宣言し、処刑場で結婚式をし、死刑の銃声が
結婚の祝砲となった。処刑場での結婚式に多くの人が感動し、日本の≪読売新聞≫でも報道した。彼女の軌跡は
のちに中国で≪処刑場の結婚式≫というタイトルで映画が撮影された。
