第2章第4節 社会と文化の変遷
辛亥革命後から30年代にかけて、民国政府の成立と一連の社会改革と建設事業の展開に伴い、
中国社会と文化生活に大きな変化を及ぼした。それでは中国が伝統社会から近代社会に向かう過程でどのような
著しい変化をもたらしたであろうか。
■工商実業の発展と都市の成長
民国建立初め、多くの有志が「実業が国を救う」という思いを抱いており、積極的に工商実業に身を投じ
工商業創業の熱気が高まった。1912年から1927年、中国商民は、資本額1万元以上の工業および鉱業を
2000軒創業し、各業種に広く広まった。1932年、全国工鉱交通など職員は150万人に達し、全国13省区91都市に及び、初期の近代工商業体系が
形成された。工場主、商人など資本家と幅広い作業員であらたな社会階層を作り上げた。
都市は工商業の集中した地である。工商業の発展により、都市の数と規模も大きく発展し、大量の農村人口が都市に
流動した。1932年の統計によると、都市の戸数はすでに全国の27%にも及んだ。工商業の発展は上海に追随し、
人口も急激に増え、1927年には264万人に及んだ。工商業の繁栄と人口の急増に伴い、各種文化事業、娯楽業も繁栄し、市民生活はさらに豊富になった。上海は全国の商業の中心となっただけでなく、全国の文化と娯楽の中心地となり、中国人にとって現代、繁栄、富、享楽、西洋は、先進文明の象徴となった。
■教育改革と初等教育の普及
民国政府成立後、教育は立国の定則という原則を実行するのは教育改革であり、欧米に留学してきて帰国したばかりの蔡元培を教育総長として任命し、続けて一連の教育改革法令を発布した。1912年9月、学校系統令を発布し、初等小学校4年卒業を義務教育と規定し、普遍教育の近代教育原則を確立した。1916年、全国各種学校総数は12万校に達し、在校学生は400万人に達した。1930年になると、全国各種学校は28万校にまでに上り、在校学生数は合計1150万。初等教育の初期の普及として、相当の数の少年が新式学校に入学し、近代教育を受けた。今後の社会文化建設事業は一定の人材基礎を固めた。
海外留学は依然として高級人材を育成する重要過程の一つであり、民国政府は一連の留学を奨励する政策を打ち出した。清末には日本留学の熱が高まり、それに続いて欧米留学の熱が高まった。おびただしい数の大志を抱いた青年たちが西洋に赴き、西洋の先進科学文化知識を学んだ。多くの人が修士、博士課程を取得した。その中から社会革命家と建設事業の棟梁が出た。その中に周恩来、鄧小平などの傑出した社会革命家、李四光、丁文江などの傑出した科学者もおり、また胡适などの傑出した文化学者もいた。留学生は社会から喝さいされる時代の寵児となり、青年たちはあがめられる羨望の対象となった。
*図や写真は掲載していません。
