出羽国 立石寺 | 「ゆるりと仏教」いも掘り坊主の与太話

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「念死念仏 常途用心」
仏さまの御教えを、拙僧のエッセイとともに紹介しています。
ほとんど与太話(^_^;)ですが、法話らしきものも書いています。
つたない文章ですが、笑ってもらえたり、うなずいてもらえたりしたら嬉しいです。
毎週水曜日に更新しています。

山形県山形市の山寺・立石寺を参詣した。

 

貞観二年(860年)に第三代天台座主・慈覚大師円仁上人が創建された。

 

山形市と仙台市の間には奥羽山脈がある。

 

立石寺はその山中に位置している。

 

伽藍(がらん)は麓から山頂へと建並んでいる。

 

なかでも特に目を引くのは五大堂である。

 

「よくぞこのようなところに」

 

山上の岩塊の上に建っているのだから驚きだ。

 

早速、登山口から参道に入る。

 

初めに「根本中堂」をお参りする。

 

比叡山延暦寺と同一の「不滅の法灯」が灯されている。

 

法統の尊さを実感する。

 

続いて山門へと向かう。

 

ここからが本格的な山道の石段となる。

 

歩みはじめて間もなく「姥堂(うばどう)」がみえた。

 

亡者の着物をはぎとる奪衣婆(だつえば)が祀られている。

 

姥堂から上は浄土となり、下は娑婆なのであろう。

 

先を行く。

 

「せみ塚」についた。

 

『閑さや岩にしみ入蝉の声』

 

松尾芭蕉の名句である。

 

芭蕉は立石寺にてこの句を詠んだ。

 

「おそらくこの辺りのことを句にしたのであろう」

 

後に弟子たちがそのようにみたて、「せみ塚」となった。

 

さらに上へと登る。

 

仁王門をくぐる。

 

これまでの道は木々に覆われていた。

 

当日は、小雨混じりの空模様だった。

 

梅雨時期なので仕方がない。

 

ただし、その分、岩塔婆や石碑が苔をまとうこととなる。

 

霊場の趣が一層感じられていた。

 

この上からは木立が少なくなる。

 

景色がひらけてきた。

 

「性相院」「金乗院」「中性院」を過ぎ山頂の「奥の院」となる。

 

一千十五段の階段を上がってきたのだ。

 

全身に汗が流れる。

 

その後、いよいよ五大堂へと進む。

 

「うわぁ~」

 

思わず声がでる。

 

JR仙山線の列車が走っている。

 

仙台と山形を結ぶ「二口街道」もみえる。

 

まことに美しい風景である。

 

『一切衆生 悉有仏性 如来常住 無有変易』

 

円仁上人は仏法流布のために山形を訪れた。

 

その際、立石のほとりで風の音にこの文の声をきいた。

 

そこで、ここに寺を開いたそうだ。

 

平安時代、二口街道は賑わいをみせていたのであろうか。

 

活気があふれ、順調に事が運ぶと人は慢心してしまう。

 

如来は変易しないが、人は変るものである。

 

「そのことを忘れないように」

 

円仁上人はそれを伝えるために寺をお開きになったのではないか。

 

生意気にもそんな解釈が私には腑に落ちる。

 

 

「大日本国法華経験記・巻上第四慈覚大師」に以下の記載があります。

 

『承和二年にもて選ばれて唐に入り、天台山に往き五台山に登りき。多年経廻し、遍く名徳に謁して、顕教密教を受学せり。大唐の人言はく、我が国の仏法は、和尚尽くに学して日本に移し伝ふといふ。承和十四年に朝に帰りぬ。弥陀念仏、法花懺法、灌頂、舎利会は、大師の伝ふるところなり。およそ仏法の東流せる、半はこれ大師の伝ふるところなり』

 

ありがとうございました。