このあいだ、お寿司屋さんに行った。
何年ぶりだろうか。
前回のことが思い出せない。
今は坊さんの仕事をしている。
だから、肉食はよくないこととなる。
だが今回は大学時代の先輩の誘いである。
生臭ではあるが伺うことにした。
「こんにちは」
木製の扉を開けて、お店に入った。
「おう。ちょうどよかった。俺も今ついたところだ」
すでに先輩はカウンターに座っていた。
「何にいたしましょう」
おしぼりで手を拭いていると大将が声をかけてくれた。
「カツオを刺身で」
先輩はたちまち注文をした。
「え~。ん~。どうしよう」
木札に書かれた魚の名前を伝えればいいだけのことだ。
しかし、それが出来ない。
魚の名前はわかるものの、味のイメージができないのである。
加えて、札には値段が記されていない。
うかつに注文して目玉がとびでるようなことになるのは避けたい。
「じゃあ、同じで」
だから、結局、そんな返答しかできなかった。
さて、しばらくすると、お客さんが何組かやってきた。
そして、カウンターから次々と注文をしていく。
「お座敷のお客さまからです」
さらに、女将さんからも大将に注文を伝えていく。
「あいよっ!」
大将はすべての注文に威勢よく返事をする。
(こんなに覚えていられるのかな?)
10人程のリクエストを一度に受けたのである。
なかには、サビ抜き、なんてものもあった。
素人にとっては不思議なことでもあり、不安なことでもある。
しかし、そんな心配は無用だった。
「お待たせしました!」
まもなくカウンターのお客さんの前に次々とお寿司が並んだ。
「はい、お座敷ね~」
続いて、女将さんにやさしく声をかける。
私は、寺の仕事を始めて15年以上経つ。
ところが、一時に複数のことをこなすことはとても苦手である。
法事、卒塔婆書き、墓掃除、帳簿の整理、などが寺の日常である。
しかし、時には、会議、総会、研修会、大法要、御葬儀などが重なってくることもある。
そうなると、たちまち頭は混乱状態におちいる。
気持ちの余裕もあっという間に無くなる。
(なさけない……)
大将の手際のよさと気持ちの大きさに感心するばかりだった。
もちろん、お寿司もたいへん美味しくいただいた次第である。
法然上人の伝記に以下の記載があります。
『法然上人は次のようにお話になった。「浄土の教えを学んでいる、比叡山に住む僧侶がいた。その僧侶が言うには、〈自分はこの教えの主な内容はすでに理解しました。ところが信心はまだ起こりません。どのようにして信心を起したらよいでしょうか〉と嘆き訴えたので、私は仏法僧の三宝に祈るのがよいと教えておいたところ、その僧侶がかなり月日が経ってやって来て、次のように述べた。〈お教えに従ってお祈りしておりました頃、ある時東大寺に参詣したのですが、ちょうど大仏殿の棟木を上げる日で、たくさんの巨大な材木を、どのようにして引き上げるかなと考えもつかないところ、轆轤(ろくろ)を設置して材木を上げると、大木がやすやすと宙に巻き上げられて、まるで飛んでいるようでした。あれまあ不思議なことだと見ていると、思い通りの位置に落として据えたのです。この様子をみて、腕のよい大工の工法でさえこれほどのものである。ましてや阿弥陀如来が人びとを導く手立てのすばらしさは、どれほどだろうかと思った時に、疑う心はたちまちなくなり信心が定まりました。これはまったく日頃からのお祈りの効験です〉と語った。僧侶はその後二・三年たって、いろいろな不思議なしるしを現して往生を遂げたのである。教えを受けることと発心とは別個のことであるから、習い学ぶ時には発心しなかったけれども、大仏殿の上棟という光景に触れて信心を起したのである。人なみに浄土の教えを聞いて念仏を行っても、信心がまだ起こらない人は、ただ一途に心を留めて常に浄土のことを深く思い、三宝にお祈りするのがよい」とおっしゃった』
【現代語訳 法然上人行状絵図 浄土宗総合研究所訳編p190】
ありがとうございました。