友人のお寺で舞楽が披露された。
名刹であり、とても大きなお寺なのである。
参道の途中に舞台が設けられ先輩の僧が舞った。
私は裏方だったので、演者の身支度を手伝い終えると、境内の隅に行き舞を鑑賞した。
舞が無事に終わると、近くにいた年配の女性が声をかけてきた。
「雅楽は神さまの音楽だと思っていたわ。お寺でも演奏するんですね」
私は改良服に輪袈裟をつけていた。
つまりお坊さんの格好をしていたので、話しかけてくれたのであろう。
「ええ。奈良時代、東大寺の大仏開眼法要でも奉納されたそうです」
有名な歴史を少し伝えた。
「あらそうなの。でも、神さまと仏さまと違う宗教なのに同じ音楽を演奏するのは不思議ね」
女性はそう言うと、お堂の方へ歩いて行った。
「確かに……」
今では神道と仏教はことなる宗教である。
それなのに儀式では同じ音楽を奉納する。
曲がりなりにも、雅楽に携わる仕事をしている。
それなのに、このことの経緯を気にかけたことはなかった。
家にもどるなり急いで調べた。
第一のキーワードは、神仏習合・神身離脱だ。
仏教が日本に入ってきた当時、仏は隣の国の「カミ」と考えられていた。
だから、隣の国の「カミ」を讃える際には、隣の国の音楽を奉納するべきであると考えた。
古来より、日本には日本の神がいらした。
そして、日本の神を讃える儀式では日本古来の音楽である御神楽などを納めていた。
従って、これに倣ったのであろう。
さて、次第に仏教の教理が広がりはじめると、日本の神々は仏に帰依するようになった。
仏は六道輪廻から抜けた存在だ。
しかし、日本の神は六道の中の天界に住んでいると考えられた。
つまり位は高いが解脱はしていないのだ。
そこで仏に帰依して解脱することを願ったのである。
神の身を離れることを求めたのだ。
現に、宇佐八幡宮の八幡神は「天神地祇を率いて東大寺大仏建立を成功させる」と述べておられたそうだ。
総力を用いて仏を守護し功徳を積んだのだ。
八幡神は東大寺大仏の造立中に奈良へ向かい大仏前で礼拝も行ったそうだ。
そのとき、東大寺では大仏開眼法要と同じように外来音楽と日本古来の音楽を奉じた。
外来音楽は大仏へ捧げるためである。
一方、日本古来の音楽は八幡神を讃えるために納められたそうだ。
こうして、神と仏とが居られる前で、日本と外来の音楽が共に演奏され始めた。
第二のキーワードは、本地垂迹である。
本地垂迹説は平安時代に広まった。
日本の神々は、もとをたどれば仏菩薩である(本地)。
人々を救うために神に姿をかえて現われたのだ(垂迹)。
と考えるようになった。
端的に言えば「神と仏は同じ」となる。
そうなれば、もちろん神に外来音楽を捧げても何の問題もない。
こうして、神の前でも外来音楽が頻繁に演奏され始めた。
第三のキーワードは、神仏分離となる。
仏教伝来以来、神と仏は近い存在、あるいは同体とされてきた。
ところが明治時代になると、神と仏は離されることになった。
ご存じのように、明治政府は神道を大切にした。
もちろん、古より神事において演奏されてきた日本古来の音楽も大切にした。
と同時に外来音楽、つまり雅楽も大切にした。
外国由来の音楽であっても、これまでの経緯をふまえて重要視したようだ。
一方、寺院側でもとうぜん仏へ捧げる音楽、つまり雅楽は大切にされ続けた。
現在、神社と寺院は別々の宗教である。
しかし、このような理由で、ともに雅楽が演奏されているそうだ。
「なるほど」
わかりやすい経緯であり、すっきりとした心地になった。
そして、少し賢くなったようでうれしくなった。
ただし、私の理解が間違っていなければ、であるが……。
続日本紀に以下の記録があります。
『盧舎那大佛像成始開眼。是日行幸東大寺。天皇親率文武百官。設齋大會。其儀一同元日。五位已上者著禮服。六位已下者當色。請僧一万。既而。雅楽寮及諸寺。種々音楽並咸来集。復有王臣諸氏五節。久米舞。楯伏。踏歌。袍袴等歌舞』
(東大寺の毘盧遮那仏は完成した。開眼供養が執り行われた。この日、天皇は行幸された。天皇はみずから文人武人を百人率いて東大寺に向かった。宴が開かれ賑わった。元日の儀式と同じように盛大だった。五位以上の者は礼服を着た。六位以下の者は各々相当の色の服を着た。僧侶が一万人招かれた。雅楽寮や各寺院より数々の音楽が演奏された。また王臣による五節舞、久米舞、楯伏、踏歌、袍袴などの歌舞も行われた)拙僧訳
【国立国会図書館デジタルコレクション 国史大系第二巻 続日本紀 P299】
ありがとうございました。
*参考文献「法蔵館 雅楽のコスモロジ―・日本宗教式楽の精神史 小野真龍著」