時計の電池を交換した。
三十五年前、おじいちゃんが買ってくれた時計である。
母方のおじいちゃんだ。
「中学生になるんだから」。
そう言って商店街の時計屋さんへ連れて行ってくれた。
「数字が大きくてシンプルなものが使いやすいぞ」。
おじいちゃんは、自らが好みの時計をいくつか選んだ。
私はそのなかから一本を選ぶ。
黒地の文字盤に黄緑の算用数字が記されている。
アナログ式のセイコークロノスである。
今は、滅多にその時計をはめて外出することはない。
電池交換の時以外は、家の外に持ち出さない。
「万が一なくしたら」
そう思うと冷や汗が出てくる。
形見分けの品ではないが、おじいちゃんの魂が宿っていると感じているからだ。
「祖母のお数珠なんですけれども、私が使っても大丈夫ですか」。
以前、葬儀の際、女性に質問をうけたことがある。
故人が愛用されていた数珠は、棺に一緒に納めることがある。
だから気にかかったのかもしれない。
「大丈夫ですよ」。
水晶の素敵な数珠だった。
御棺のお祖母さまの手には、別の数珠が納められている。
尚更安心だ。
「よかった。大切にします」。
寂しくて悲しいことには変わりがないであろう。
しかし、なんとなく温かい表情がみえたようであった。
ものには魂が宿っている。
そう信じる。
だから、時計や数珠をはめて懐かしむだけではない。
言葉をかけたり、今でも一緒にいることを確かめたりすることもできる。
合理的ではないかもしれない。
ものは、ただの物なのかもしれない。
しかし、例えば偶然に街でみかけた昔の建物であっても、当時の大工さんの心が偲ばれろことがある。
全体の雰囲気や個別の痕跡から、使用していた方の思いが伝わってくることもある。
一瞬かもしれないが、当時の方と時空を共に出来たように感じられることすらある。
縁のなかったものに対してでさえ、このようなのである。
こちらの想いだけでなく、ものの方から何かを発しているようではないか。
これでも、「たんなる思い込み」と言う方もいるであろうか。
もちろん、それでもいい。
私はそうは割り切れないだけだ。
ものには魂が宿っていると信じている。
その方が、暮らしの趣が深くなることを実感していますから。
法然上人を敬っておられた、明遍僧都さまについて以下の記がございます。
『明遍僧都は、ひたすら法然上人の教化を信じ、背く心がなかったので、上人が亡くなられてからは、その遺骨を生涯首にかけておられ、その後は高野山の大将法印〔貞暁、鎌倉将軍源頼朝の子息〕が遺骨を相伝された』
【現代語訳 法然上人行状絵図 浄土宗総合研究所編p162】
ありがとうございました。