横浜からの帰り道、多摩川の河川敷によった。
人はそれ程でていなかった。
平日の午前だったからであろう。
土手の上にある遊歩道の端から、辺りの景色を眺た。
グラウンドの芝生がきれいに手入れされていた。
対岸までは五百メートル位はあるだろうか。
そこまで視界をさえぎるものはなにもない。
とても爽快である。
初夏の風も緩やかに吹いていて心地がよい。
気持ちが穏やかになってくる。
近くでは、三才位の男の子が鉄橋をみつめていた。
「ケイキュウ」
「ケイヒントウホクセン」
電車が好きなようである。
指をさしながら得意げに説明をしていた。
「ほんとだね。かっこいいね」
お母さんは優しい顔で応えていた。
少し河上へ向けて歩いてみる。
今度は、幼い男の子が地面をみつめていた。
「アリさんがいる」
興奮気味に伝えている。
虫が好きなようだ。
「どこどこ」
お母さんは嬉しそうに覗き込んでいた。
お父さんと一緒にいる女の子ともすれ違った。
肩車をされていた。
二人とも満面の笑顔で歩いていた。
幸せそうである。
近頃、このような光景が目にとまるようになってきた。
つい見入ってしまう。
胸がいっぱいになってくる。
目の辺りがジワジワとしてきてしまうこともある。
中年オヤジが、いまにも涙を流しそうな姿でいる。
ちょっと怪し過ぎる。
絶対に気づかれないようにして通り過ぎなければならない。
それにしても、なぜだろうか。
どうして泣けてきてしまうのか。
もともと涙もろい方ではあるが……。
無自覚のうちに、何か辛いものを抱え込んでしまっているのだろうか。
それとも、子供の頃が懐かしく感じられてきてしまうのだろうか。
いや、ちょっと違うようだ。
もう少し前向きな感覚がある。
なるほど、私だって曲がりなりも人生を経験してきたわけである。
心豊かな時間がどのようなものなのか。
多少は理解できているつもりである。
だから、そのような場面に遭遇すると、感極まってしまうのではないだろうか。
今は、そんな気がしている。
「無量寿経」に、以下の御記がございます。
『〔そもそも〕世間の人々は、親子・兄弟・夫婦・諸々の親類縁者であれば、互いに敬って親愛しあい、〔また〕互いに憎んだり妬んだりすることなく、〔物が〕ある時もない時もともに分かち合い、意地汚く独り占めするようなこともなく、言葉遣いも表情もいつも穏やかで、お互いに誤解し仲違いするようなことがあってはならない』
【現代語訳 浄土三部経 浄土宗総合研究所編p131】
ありがとうございました。