涙もろく | 「ゆるりと仏教」いも掘り坊主の与太話

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「念死念仏 常途用心」
仏さまの御教えを、拙僧のエッセイとともに紹介しています。
ほとんど与太話(^_^;)ですが、法話らしきものも書いています。
つたない文章ですが、笑ってもらえたり、うなずいてもらえたりしたら嬉しいです。
毎週水曜日に更新しています。

横浜からの帰り道、多摩川の河川敷によった。

 

人はそれ程でていなかった。

 

平日の午前だったからであろう。

 

土手の上にある遊歩道の端から、辺りの景色を眺た。

 

グラウンドの芝生がきれいに手入れされていた。

 

対岸までは五百メートル位はあるだろうか。

 

そこまで視界をさえぎるものはなにもない。

 

とても爽快である。

 

初夏の風も緩やかに吹いていて心地がよい。

 

気持ちが穏やかになってくる。

 

近くでは、三才位の男の子が鉄橋をみつめていた。

 

「ケイキュウ」

 

「ケイヒントウホクセン」

 

電車が好きなようである。

 

指をさしながら得意げに説明をしていた。

 

「ほんとだね。かっこいいね」

 

お母さんは優しい顔で応えていた。

 

少し河上へ向けて歩いてみる。

 

今度は、幼い男の子が地面をみつめていた。

 

「アリさんがいる」

 

興奮気味に伝えている。

 

虫が好きなようだ。

 

「どこどこ」

 

お母さんは嬉しそうに覗き込んでいた。

 

お父さんと一緒にいる女の子ともすれ違った。

 

肩車をされていた。

 

二人とも満面の笑顔で歩いていた。

 

幸せそうである。

 

近頃、このような光景が目にとまるようになってきた。

 

つい見入ってしまう。

 

胸がいっぱいになってくる。

 

目の辺りがジワジワとしてきてしまうこともある。

 

中年オヤジが、いまにも涙を流しそうな姿でいる。

 

ちょっと怪し過ぎる。

 

絶対に気づかれないようにして通り過ぎなければならない。

 

それにしても、なぜだろうか。

 

どうして泣けてきてしまうのか。

 

もともと涙もろい方ではあるが……。

 

無自覚のうちに、何か辛いものを抱え込んでしまっているのだろうか。

 

それとも、子供の頃が懐かしく感じられてきてしまうのだろうか。

 

いや、ちょっと違うようだ。

 

もう少し前向きな感覚がある。

 

なるほど、私だって曲がりなりも人生を経験してきたわけである。

 

心豊かな時間がどのようなものなのか。

 

多少は理解できているつもりである。

 

だから、そのような場面に遭遇すると、感極まってしまうのではないだろうか。

 

今は、そんな気がしている。

 

 

「無量寿経」に、以下の御記がございます。

 

 『〔そもそも〕世間の人々は、親子・兄弟・夫婦・諸々の親類縁者であれば、互いに敬って親愛しあい、〔また〕互いに憎んだり妬んだりすることなく、〔物が〕ある時もない時もともに分かち合い、意地汚く独り占めするようなこともなく、言葉遣いも表情もいつも穏やかで、お互いに誤解し仲違いするようなことがあってはならない』

 

【現代語訳 浄土三部経 浄土宗総合研究所編p131】

ありがとうございました。