お寺の近くに青山墓地がある。
車で十分くらいである。
大都会のまんなかにあるとはおもえないほど緑が多い。
お手入れも綺麗に行き届いており、とても清々しい。
貴重な場所である。
これだけ好立地な霊園である。
現在の人気はひじょうに高い。
明治二年のことである。
政府は、神祇官や神官などの墓地を東京府下に新設することを決めた。
新設されたのは二ヶ所だ。
そのうちの一つが「青山百人町続足シ山」であった。
明治五年には、さらに四ヶ所が加えられた。
その中に「青山元郡上邸跡」があった。¹
こうして、現在の青山墓地ができたそうだ。
「開設当時は郊外に位置したこれらの墓地は、東京の市街地の拡大により、大正のはじめころには市街地に吸収され、その頃から、都心市街地に存する墓地は公衆衛生などの観点から都市政策上の課題であり、郊外への移転を検討すべきであるという考え方が示されるようになった」
平成14年12月5日の「東京都公園審議会」資料の記載である。
明治以降、東京の街が広がってきた。
もとは郊外であった場所も、市街地となった。
すると、衛生上の課題があらわれた。
墓地は街の外に移動した方がいい。
次第に、そのような考えが出始めたようだ。
ところで、移動の話が出始めたのは大正年代だ。
大正デモクラシーの時代である。
それを考えると、墓地移動案は衛生的な観点以外にもありそうな気がする。
都市をつくり、生産性や制御性を高めようとしていたころである。
街には経済性が低いものはいらない。
とうぜん、墓地は都会には相応しくない。
そんな思考も働いたのではなかろうか。
ただ、この計画は実行されなかった。
貴重な緑が残った。
現在に至っては霊園と街が共存する方向に向いている。
気持ちが温かくなってくる。
「区部霊園が明治7年の開設以来130年の歴史の中で育んだ自然資源や歴史的な人文資源は都民共有の貴重な財産であり、区部霊園は、そうした財産を良好に保全しながら、霊園利用者だけでなく広く都民が利用できるよう、「霊園」と「公園」が共存した空間として再生する」
東京都の理念である。
現代も社会では効率性、制御性が高く求められている。
合理性のないものは排除されがちである。
しかし、本来世の中は予測不可能なことは多くある。
一見すると意味のなさそうなものも存在する。
それで成り立っている。
都会の人々はそのことを忘れがちである。
墓地は、生産性や合理性とは距離ある。
青山墓地は、今の人々が無常を自覚するために大切な存在となるであろう。
恵心僧都源信さまの往生要集に、以下の教えがございます。
『この身は苦しみだけあって、耽溺するようなものではない。四つの山がよせてくるように、生老病死の四つがおとずれてきて、逃げかくれるところはない。ところが、生あるものは貪りの心でみずからを包みかくし、深く五官の欲望に執着して、永遠でないものを永遠にあるものと思い、楽しくはないものをも楽しいと思っている』
【東洋文庫 往生要集1 恵心僧都源信さま著・石田瑞麿先生訳P57】
ありがとうございました。
1吉川弘文館 日本葬制史 勝田至先生編P275