奇瑞などただの偶然だ。
そう思う人もいるであろう。
奇瑞とは、故人が極楽往生をした証として現れる、にわかには信じ難い現象のことである。
しかし、私は有ると信じているのである。
つい先日、親しくしていただいていた大先輩の僧侶が遷化された。
私が修行をしていたときの指導官、つまり先生でもあった。
厳しい指導官が多いなか、その先生は優しかった。
例えば、作法を間違えてしまったときなどは、「一生懸命勤めたのに上手く出来なかったのなら仕方が無い。でも次は頑張れ」と声をかけてくれた。
そうおっしゃってもらえると、落ち込みながらも「次こそは」と思えてくる。
ぎこちない動きながらも失敗することなく勤めることができたならば、「よくやったな」とねぎらって下さる。
普通は出来て当たり前なので、前向きな言葉をかけて下さる先生は少ない。
もちろん、修行とはそういう厳しさの中にあるものであるが、ねぎらってもらえればうれしくなる。
修行を卒業してからも変らなかった。
儀式で雅楽演奏をミスしてしまったときも、「そういうこともある。でも次はきちんと吹けるようにもっと練習してこい」と、どこか温かさのある言葉をかけて下さる。
綱渡りながらも、なんとか吹き切れれば、「前よりはよくなった」と褒めて下さる。
私のような下っ端にも気をかけて下さっているのが、ほんとうに有り難かった。
もちろん、このようなことを感じていたのは私だけではない。
新米僧侶のみならず、老若男女問わず多くの僧侶や信徒さんが慕っていた。
さて、先輩の葬儀の日は、朝から雨だった。
予報では、一日中雨だとなっている。
参列者のあいだでも、「涙の雨だね」と言葉が交わされていた。
十一時になり読経が開始された。
相変わらず雨は降り続き、止む気配など全くない。
一時間程で、読経が終わる。
皆で棺に花を手向ける。
お堂の前には霊柩車が到着し、荼毘へと向かう準備が整い始める。
遺弟、つまり次期住職さんが挨拶をおえ、出棺となる。
皆で棺に手をかける。
すると、どうであろう、急に雨が止み、日が差し込んできた。
百パーセント雨の予報だったのに、驚くべき光景である。
その途端、「先生が極楽往生されたしるしだ」と、皆が言葉を交わしたことは言うまでもない。
きっと、心優しい先生が、私たちの信心を深めるために極楽往生の証を強く示してくださったのである。
これほどの不可思議な現象を奇瑞と言わずして何と言おうか。
法然上人のお弟子さまの智明上人について、以下の伝えがあります。
『前文略 弟の俊基が帰ってから、僧たちは一緒に別時念仏を勤め、翌十六日の午後八時ごろ、姿勢を正して座り合掌して「光明遍照」の文を唱え、大きな声の念仏を二時間ばかり称えて、瞑想に入るかのような安らかな心持ちで息を引きとった。享年75であった。そのとき紫雲が家の上にたなびき、音楽が雲の上から聞こえ、持仏堂と庵室の間には光明が充満し、内外に心地よい香りが漂い、遠い近いを問わず、僧も在俗の人も、男も女もこれを見聞した。ずっと以前から、阿弥陀仏の救いの光明に思いをかけていたが、思いどおりに救いの光明を感得したことは、不思議で尊いことであった』
【現代語訳 法然上人行状絵図 浄土宗総合研究所編p283】
ありがとうございました。