未練なし | 「ゆるりと仏教」いも掘り坊主の与太話

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「念死念仏 常途用心」
仏さまの御教えを、拙僧のエッセイとともに紹介しています。
ほとんど与太話(^_^;)ですが、法話らしきものも書いています。
つたない文章ですが、笑ってもらえたり、うなずいてもらえたりしたら嬉しいです。
毎週水曜日に更新しています。

子供の頃、テレビゲームが流行していた。

 

ファミコンだ。

 

親は絶対に買ってくれることはなかった。

 

また、お小遣いをためて購入することも禁止された。

 

学校では、毎日のように「俺はここまでクリアした」などと友達が話をしている。

 

私は会話の中には入れない。

 

一人、端の方で気配を消しながらなんとなく近くにいるだけだ。

 

短時間ならなんでもない。

 

慣れっこである。

 

しかし、取り残されている時間が長くなってくると寂しくなってくる。

 

思い切ってその場を離れることも考えるが、他に行くあてもない。

 

それに、友人の輪から抜けるのも怖い。

 

結局は、寂しい気持ちを自覚しないように心に力を込めて、時間をやり過ごすことを毎回選択する。

 

つらく、悲しい時間帯であった。

 

大学時代は庭球同好会に所属していた。

 

各同好会には部室が提供されていたので、授業の合間などにはよくそこで過ごした。

 

友人達は食堂で集まることも多かったが、私は部室にいた。

 

先輩が持ち込んていたスーパーファミコンで遊びたかったからだ。

 

くだらないようだが、子供の頃に遊べなかったのが悔しかった。

 

もちろん、幼少期の寂しかった思いを埋めることが出来ない。

 

そんなことはわかっていたが、それでもやってみたかった。

 

お陰で、しばらくするとゲームに対する未練はなくなっていた。

 

未練と言えば、法要の後席で、もっともっと大切な話を伺ったことがある。

 

その方は、箱根の山中で奥さまと楽しく暮らしている。

 

十年前に定年を迎えたのをきっかけに、都心から箱根へと引越しをしたそうだ。

 

ご主人は、定年まで兎に角仕事に明け暮れていた。

 

家族には申し訳ないが、「会社一筋」で生きてきた。

 

奥さまも「そういう時代だったのよ」と、仕方が無くそれを受け入れていた。

 

ただ、定年が近づくにつれ、それまでの生き方を振り返ることが急に増えてきた。

 

「何か取り残してきたものはないか」。

 

すると、ある日、子供の頃は工作が大好きだったことを思い出す。

 

そして、無性に何かを作りながら生活をしたくなってきた。

 

一方、奥さまは子供の頃からずっと都会で暮らしていた。

 

だから、いつかは空気の綺麗なところでのんびりと生活するのが夢だった。

 

奥さまの思いを知っていたご主人は、いよいよ定年が近づいたとき、思い切って相談してみた。

 

「箱根で暮らしてみないか」。

 

現在は、陶芸をしたり、木工細工をしたり、鳥の鳴き声を静かに聞いたり、静かに読書をしたりして、毎日を楽しんでいるそうである。

 

お二人は、「だからね、お坊さん。私達はいつ往ってもこの世に未練はないんだよ」と笑顔でおっしゃっていた。

 

話をききながら、色々な部分でうらやましくなってっきた。

 

私もその時が来た際には、是非とも心の底から未練なく往きたいものだと、つくづく思った。

 

 

鴨長明さまの「発心集」に、以下のような記があります。

『この僧賀上人は臨終の時、まず碁盤を持って来させて一人で碁を打ち、次に馬具の障泥を持って来させてこれをかぶり、胡蝶という舞の真似をした。弟子達がいぶかしんで、理由を聞くと「幼い頃、この二つをやってはいけないと人に注意されていた。してみたいと思いながらできなかったが、ずっと心にかかっていたので、もし現世への執着になるといけないと思って」とおっしゃった。そして諸菩薩の迎えが来たのを見て、喜びながら和歌を詠む。《みつはさす八十すぎの老の浪くらげの骨にあひにけるかな》(ひどく年老いた八十すぎの老いの波が、ありえないはずのくらげの骨に出会うように、奇跡的な来迎に出会うことができた)と詠んで息絶えた』

【角川文庫 発心集上 鴨長明様著・浅見和彦先生、伊東玉美先生=訳注p265】

 

ありがとうございました。