子供の頃、テレビゲームが流行していた。
ファミコンだ。
親は絶対に買ってくれることはなかった。
また、お小遣いをためて購入することも禁止された。
学校では、毎日のように「俺はここまでクリアした」などと友達が話をしている。
私は会話の中には入れない。
一人、端の方で気配を消しながらなんとなく近くにいるだけだ。
短時間ならなんでもない。
慣れっこである。
しかし、取り残されている時間が長くなってくると寂しくなってくる。
思い切ってその場を離れることも考えるが、他に行くあてもない。
それに、友人の輪から抜けるのも怖い。
結局は、寂しい気持ちを自覚しないように心に力を込めて、時間をやり過ごすことを毎回選択する。
つらく、悲しい時間帯であった。
大学時代は庭球同好会に所属していた。
各同好会には部室が提供されていたので、授業の合間などにはよくそこで過ごした。
友人達は食堂で集まることも多かったが、私は部室にいた。
先輩が持ち込んていたスーパーファミコンで遊びたかったからだ。
くだらないようだが、子供の頃に遊べなかったのが悔しかった。
もちろん、幼少期の寂しかった思いを埋めることが出来ない。
そんなことはわかっていたが、それでもやってみたかった。
お陰で、しばらくするとゲームに対する未練はなくなっていた。
未練と言えば、法要の後席で、もっともっと大切な話を伺ったことがある。
その方は、箱根の山中で奥さまと楽しく暮らしている。
十年前に定年を迎えたのをきっかけに、都心から箱根へと引越しをしたそうだ。
ご主人は、定年まで兎に角仕事に明け暮れていた。
家族には申し訳ないが、「会社一筋」で生きてきた。
奥さまも「そういう時代だったのよ」と、仕方が無くそれを受け入れていた。
ただ、定年が近づくにつれ、それまでの生き方を振り返ることが急に増えてきた。
「何か取り残してきたものはないか」。
すると、ある日、子供の頃は工作が大好きだったことを思い出す。
そして、無性に何かを作りながら生活をしたくなってきた。
一方、奥さまは子供の頃からずっと都会で暮らしていた。
だから、いつかは空気の綺麗なところでのんびりと生活するのが夢だった。
奥さまの思いを知っていたご主人は、いよいよ定年が近づいたとき、思い切って相談してみた。
「箱根で暮らしてみないか」。
現在は、陶芸をしたり、木工細工をしたり、鳥の鳴き声を静かに聞いたり、静かに読書をしたりして、毎日を楽しんでいるそうである。
お二人は、「だからね、お坊さん。私達はいつ往ってもこの世に未練はないんだよ」と笑顔でおっしゃっていた。
話をききながら、色々な部分でうらやましくなってっきた。
私もその時が来た際には、是非とも心の底から未練なく往きたいものだと、つくづく思った。
鴨長明さまの「発心集」に、以下のような記があります。
『この僧賀上人は臨終の時、まず碁盤を持って来させて一人で碁を打ち、次に馬具の障泥を持って来させてこれをかぶり、胡蝶という舞の真似をした。弟子達がいぶかしんで、理由を聞くと「幼い頃、この二つをやってはいけないと人に注意されていた。してみたいと思いながらできなかったが、ずっと心にかかっていたので、もし現世への執着になるといけないと思って」とおっしゃった。そして諸菩薩の迎えが来たのを見て、喜びながら和歌を詠む。《みつはさす八十すぎの老の浪くらげの骨にあひにけるかな》(ひどく年老いた八十すぎの老いの波が、ありえないはずのくらげの骨に出会うように、奇跡的な来迎に出会うことができた)と詠んで息絶えた』
【角川文庫 発心集上 鴨長明様著・浅見和彦先生、伊東玉美先生=訳注p265】
ありがとうございました。