書類を届けるために、ちょっと離れた大きなお寺さんへ行った。
駐車場に車を止めると、まずはお堂の前に進み合掌礼拝をする。
それから、受付のある会館へと緊張しながら向かう。
初めて行くお寺だったのだ。
さて、入口の扉をあけ中に入ろうとすると、いきなり「おはよう」と挨拶をされた。
しかも、かなり高めの声で。
「んっ」と不可解に思いつつ声のする方に目を向けると、「九官鳥」だった。
少し驚いたが、せっかくなので、こちらも「おはよう」と挨拶をした。
受付の方によると、毎日挨拶をしていたらいつのまに覚えてしまっていたそうだ。
とてもあたまがいいようである。
あたまのいい鳥といえば、子供の頃のことが思い出される。
母親が縁側でカラスに餌をあげていたことだ。
本当は、野鳥に餌をあげてはいけないのかもしれないが……。
そのカラスは、毎日夕方になると縁側近くの壁の上にやってきた。
母はその姿を確認すると、「ハイハイ」と返事をしながら縁側へ出て行いく。
そして、静かに待っているカラスへめがけて餌を投げてあげていた。
あげていたのは、パンの残りだったり、ドーナツの残りだったりしたと思う。
カラスはそれを上手にキャッチ。
ひとしきりあげおわれば、両手を広げて「おしまい」と声をかけてあげる。
すると、カラスは飛んでゆき、母は家の中に戻ってきていた。
日頃から母は、「なかよくしていると、外に出しておいたゴミをあさったり、繁殖期でもおそったりしてこないのよ」と言っていた。
実際のところはよくわからないが、その通りならカラスにも恩情があるようである。
母の手なずけも、なかなかだが……。
賢い鳥といえば、もうつ一つ、お念仏を唱えていた鸚鵡の法話を思い出す。
その昔、あるお坊さんの家の近くに鸚鵡が住んでいたそうだ。
そのお坊さんは、朝晩かかさず念仏を唱えていた。
おかけで、その声がいつも鸚鵡の耳に入ってきていた。
すると、いつのまにか鸚鵡はそれを覚えてしまい、お念仏を唱えられるようになっていたそうだ。
純粋さが薄れている私は、「まさか」と思わなかったわけではない。
でも、九官鳥やカラスのことを考えてみると、さもありなん。
大変に有り難い鸚鵡がいても、、摩訶不思議ではなさそうだ。
鴨長明さまの「発心集」に、以下の御記がございます。
『中ごろ、唐土に朝夕念仏を唱える僧がいた。その住まいの近くに鸚鵡という鳥が巣を作って住んでいた。念仏の声を聞くのが習慣になり、あの鳥の癖で、口まねをして、いつも『阿弥陀仏』と鳴いていた。人は皆、これに感心して褒めていたが、時が来てこの鳥が死んだ。寺の僧たちが、遺骸を取り収めて穴を掘って埋めたところ、そこから蓮花が一本生えて来た。驚いて掘り返してみると、あの鸚鵡の舌が根となって生えていた』
【角川文庫 新版・発心集(下)現代語訳付 鴨長明 浅見和彦・伊東玉美=訳注 p283】
ありがとうございました。