その時のことは、 | 「ゆるりと仏教」いも掘り坊主の与太話

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「念死念仏 常途用心」
仏さまの御教えを、拙僧のエッセイとともに紹介しています。
ほとんど与太話(^_^;)ですが、法話らしきものも書いています。
つたない文章ですが、笑ってもらえたり、うなずいてもらえたりしたら嬉しいです。
毎週水曜日に更新しています。

「故人は、延命治療を望みませんでした。最期は自宅で穏やかに過ごしておりました」と、葬儀の席でご遺族から伺ったことがある。

 

ご長寿だったご本人は、病院で多くの治療をしてもらうよりも、多少時間が短くなっても家にいることを希望されたそうだ。

 

しかし、ご家族は「少しでも長く生きていてもらいたい」と思う気持ちもあった。

 

「だから、みんなで何度も話合いをしました」とも教えて下さった。

 

「難しい判断をされたのだろうな」と感じた。

 

幸いにして、私はこれまでこのような判断を迫られる状況になったことはない。

 

しかし、間違いなくその場面は訪れるであろう。

 

自分ならどうするか……。

 

延命治療を望まないでいられるだろうか。

 

明日、調子がおかしいと感じ病院に行ったとする。

 

そして、検査をしてもらった結果、医師に「治ることはありません」と説明されたとしたら……。

 

おそらく別の病院でも検査してもらうだろう。

 

しかし、それでも結果が同じなら……。

 

治してくれる医師を必死に探してしまうかもしれない。

 

もし、治療の可能性が全て絶たれたら……。

 

普段に近い格好で生活ができるのだとしたら、積極的な延命治療を望む。

 

いや、病室であっても意識がはっきりとしているのであれば、やはり望むと思う。

 

でも、苦痛が長く続くようであれば……。

 

90才や100才だったらどうだろうか。

 

意識が明瞭で家族と会話が出来るのであれば、病室でも延命治療を望むだろう。

 

しかし、治療をしてもらうことで、意識が遠のき会話も出来なくなるのであれば……。

 

もし、延命治療をやめてもらった場合、病室にいることを望むのか、家にいることを望のか……。

 

自分ではなく、両親のことを判断する状況になったら……。

 

かりに意識がなかったとしても、出来るだけの治療を望んでしまう気がする。

 

ああ、頭の中がこんがらがってきてしまった。

 

よく考えてみれば、今の自分が考えていることを子供の時の自分がわかっていたわけではない。

 

それどころか、5年前だって今の自分が何を考えるのかを予測出来ていたわけではない。

 

だとしたら、「その時のこと」を今の自分が考えても解らないのは当然だ。

 

すると、出てくる結論は……。

 

少し厳しいが、「その時のことは、その時に判断するしかない」となってしまうのかもしれない。


 

石見国出身の浄土宗三祖さま・良忠上人の「看病用心鈔」の御教えに、以下のお言葉があります。
 

『祈祷などは決して行ってはならない。しかし、苦痛を除いて念仏を唱えやすくするために、灸や薬物による治療を行ってよい。しかし、看病する側から積極的に勧誘してはいけない。なぜならば、灸や薬物による治療は痛みを除くためであるが、本心は延命を望んでいるからである。そして、延命を望み、死を恐れることは往生の障害となる』
 

【出帆新社 やさしい仏教医学 杉田暉道先生著P222】
 

 

ありがとうございました。