12年前の今頃は私、何をしていただろう。

そうだ。

近所の実家で、家族みんなで集まって、気仙沼の両親(オットのパパママ)や知り合いたち、そして仙台市内の沿岸部にいる友人たちのことを考えて、とてもとても苦しかったのだった。

あの日のこの時間、まだオットは県南の会社から帰ってきていなかった。

会えたのは、日付が変わる頃だったと思う。

 

私は年老いた初代の愛猫を抱いて、今現実に起きている出来事と、容赦なく起きる余震と、これからどんな悲しい現実を受け入れなければならないのだろうという恐怖心と、逃げてしまいたい気持ちと、苦しくなる胸と、「ああ、早くオットが帰ってこないかな」という思いでいっぱいだったのだ。

余震がひどくなると、弟と一緒に外に出て、一体どうしてこんなに澄んでいるのかと笑ってしまうほど藍色の夜空を見上げた。

星があんなにきれいに見えるなんて、この大都会では初めてのことだった。

そして、まさか30半ばを過ぎて、実の弟と手を繋いで街を歩くなんてことを経験するとは、今考えても笑ってしまう。

でも、あの夜は、誰かの体温を感じることで、生きているという実感が欲しかったのだ。

もう永遠に朝が来ないんじゃないかと、冗談じゃなく思った。

 

実際には午前5時を過ぎた頃に、白々と夜が明けたのだけれども……。

 

これまでで一番苦しい朝だった気がする。

 

朝日の中で、現実がそのまんま目に飛び込んできたからだ。

 

あの朝は忘れない。

あの時知らされた生の知らせにむせび泣いたことも、死の残酷さに崩れ落ちたことも、忘れられない。

 

そして、12年が過ぎて。

 

私は今、野球を見ているよ。

酒を飲みながら、ツマミを食べながら、WBCを見ているよ。

家族もみんな元気だよ。

有難いよ、嬉しいよ、しみじみするよ、日常ほんとにありがとう。

 

オットも会社を辞めて9年が経つ。

物書きとしてメシを食って7年目に入った。

たくさんの人に助けてもらった。

ありがとうありがとう、心からありがとう。

 

2011年3月11日から、いろんなことがあって今日を迎えた。

 

なんだか今年はいつにも増して感慨深い。

 

震災時検死に走った義父が昨年歯科医を退き、畑を耕し楽しそうだからだろうか。

急性心筋梗塞で下手したら死んでたかもしれない父っつぁまもノソノソ元気だからだろうか。

オットの母からはかわいい猫グッズが届き、今月一緒に夕食を食べる約束をし、生みの母っつぁまはワインをがぶ飲みして適当に楽しそうだ。

甥や姪もすくすく育ち、愛馬は死んだが本としてこの世に生きている。

震災の年に生まれたニャンコたちはこれでもかというほど好き勝手に生きている。

 

月日は確実に過ぎ、思い出は重なり、そして私にはたくさんの大事な部品が増えた。

それは、人と人の繋がりだ。私の心と体、そのどの部分にも「みんなとの思い出の部品」がある。

どれ一つ欠けても、いけないものだ。

 

月並みだけど、ただ、感謝しかない。

神仏はいるんだよ。

いつもそばで「がんばれ」「負けるな」と発破をかけてくれている。

もっと優しくしてくれよと思うけど、怠け者の私にはちょうどいい。

 

東日本大震災から12年経った夜。

心から多くのことに感謝が湧いてくる。

 

そして。

全ての御霊が安らかなるよう、手を合わせる。

それだけだ。

 

合掌