天竹(てんじく)神社 | 青い空がすき

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神社・寺院巡りを中心に、お出かけした先を紹介しています。

この日は神社に参拝する予定はありませんでした。
いつもと違う道でJA産直所に向かっていたところ、産直所の案内の下に神社の案内が…ポーン
西尾では共にメジャーなんでしょうか?

わたし、こちらの神社、名前は知っていて西尾市にあるのも知っていました。が、どこにあるのか調べたことなかったので、これは行くしかないよね~
で、急遽参拝させていただきましたキラキラ

紹介します。天竹神社と言います。


社号標で、いいのかな?


鳥居と灯籠



ご由緒書き
こういう石製は自分が写り込まないように気を使いますタラー

ご由緒
延暦18年(799年)に崑崙人が綿の種を持って今の天竹町あたりに漂着し、その種をこの地に最初にまいたことから木綿の発祥地とされいてます。
1837年(天保8年)地蔵堂に天竹社が祀られました。
1883年(明治16年)神仏分離により地蔵堂から分離され、天竹神社と改称されました。

<綿伝来の伝説>
日本後紀、類聚国史、大日本史などに、以下のような内容の記述があります。
延暦18年(799年)、三河国幡豆郡(現在の矢作古川の河口付近)に1艘の小船が漂着しました。その船には1人の若者がいましたが、全く言葉が通じませんでした。唐人は「彼は崑崙人だ。」と言ったということです。
この崑崙人は、布で背を覆い、ふんどしをつけ、左肩に袈裟に似た紺色の布を着けた服装でした。所持品は一弦琴と壺などであり、この壺に綿の種子が入っていたそうです。
崑崙人はこの地に住み、住民に綿の栽培を伝えました。さらに、紀伊国、淡路国、阿波国、讃岐国、伊予国、土佐国、筑前国などでの栽培方法を伝えたのち、近江国国分寺で僧侶となったそうです。
崑崙人が漂着した地は、天竺と改称され、その後天竹となったといわれます。
【wiki・西尾市観光協会HPより抜粋】


手水舎



狛犬
大正時代のものです。


拝殿


扁額



彫刻が素晴らしいですニコニコ


拝殿内


ご本殿



社務所兼授与所兼公民館


ご神木かな~



境内社





境内には綿に関する資料館があります。日本で数少ない「綿」に関する神社です。 
貴重な資料は無料で閲覧が可能です。またもや西尾市さん太っ腹キラキラ



鳥居の前の道に常夜灯と祠があります。
常夜灯には天保と彫ってありました。


神社の横には地蔵堂があります。
ご由緒に出てきた地蔵堂でしょうか?


手水舎


境内に観音さま


地蔵堂の外にもお地蔵さま


扁額



お堂内

突然決めた参拝でした。が、いいもの見せていただきました。祭礼の時に来てみたいものです。
いつも思うのですが、10月の土日にお祭りが重なってしまうので、ただでさえ土日は出掛けにくいわたしはいつお祭りに来ることができるのでしょう笑い泣き
下の子(剣道girl)が大学生になるか就職するか…それまではお預けかも笑い泣き笑い泣き笑い泣き

それまで元気に生きてられたらいいな滝汗
今日は病院の日で、子宮体ガンの検査をしてきたからの発言でした。



今日も最後まで読んでいただきありがとうございましたニコニコ